永楽帝
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姓名 | 朱棣 |
年号 | 永楽 |
廟号 | 成祖 |
字 | - |
諡号 | 啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝 |
生没年 | 1360年-1424年 |
在位 | 1402年-1424年 |
永楽帝(えいらくてい 1360年 - 1424年、元至正20年4月17日 - 明永楽22年7月17日、 在位1402年 - 1424年)は、中国明朝の三代目皇帝。諱は棣(てい)。廟号は太宗であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称。諡号は、啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝である。しかし、日本ではその在位中の年号から取って、永楽帝と呼ぶことがほとんどである。
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[編集] 即位以前
洪武帝の第四子として生まれ、11歳のときに燕王に封ぜられる。元を北方に追い落とした後、北元がモンゴル高原に割拠していた時代、北の護りである燕は極めて重要な土地であり、ここに配置された朱棣はその戦場での能力と勇敢さを洪武帝に愛されていた。明史によれば洪武帝は朱棣に皇位を継がせようとしたが群臣に反対され取り止め、朱棣を皇帝にできないことを悲しんで泣いたと書かれている。この話をそのまま信じることはできないが、朱棣が有能な人物であったことは間違いない。
1398年(洪武三十一年)、父の洪武帝が死に、朱棣の兄の子に当たる皇太孫が建文帝として皇帝になると、建文帝とその側近達は皇帝の地位を確かなものにするため、各地に封じられた皇族である諸王の削藩を画策する。これに反発した朱棣は10万の兵を集め南京の建文帝に対し反乱を起こす。朱棣は自らの軍を靖難軍(君側の奸を討ち、国難を靖んずるの意味。)と呼び、ここからこの反乱を靖難の変と呼ぶ。
[編集] 恐怖政治
1402年(建文四年)、靖難の変に勝利した朱棣は皇帝の座に着いた。1421年(永楽21年)に、首都を北平に遷し、これを改名して北京順天府とするとともに、1406年(永楽4年)から改築を進めてきた紫禁城を完成させ、ここに移った。
皇帝に即位した時、建文帝の側近で儒学者であった方孝孺に「燕賊簒位(燕賊、位を奪う)」と自らの簒奪を非難され、激怒し、方孝孺の一族を皆殺しにした。処刑は方孝孺の使用人、門人にまで及び、「滅十族」と称された。これより永楽帝は建文帝の存在を歴史から抹殺しようと試みる。まず建文の年号を廃止し、この年を洪武三十五年とした。そして皇帝直属の錦衣衛に建文帝のことを言い出す者を監視させた。また東廠と呼ばれる宦官の組織を作り、諜報活動を行わせた。洪武帝が行った恐怖政治を永楽帝は少し方向を変えて行ったことになる。永楽帝の時代に明の皇帝独裁体制が固まり、以後政治を壟断する寵臣は出るものの皇帝が代わると没落し処断されるのが常になった。
[編集] 対外政策
外征を控え、元末の混乱以来の中国の疲弊を癒そうとした洪武帝の遺産を永楽帝は外征につぎ込んだ。洪武帝が望んだのは農本主義の民族国家であったと思われるが永楽帝は全てその反対を行った。
永楽帝は世界帝国を目指し、積極的に外征を行った。当時北元はタタール部とオイラト部に分裂して度々明との国境を越えて侵入した。これに対し永楽帝は断固たる態度で臨み、異例の親征を5度に渡って行いモンゴル族を追い返した。また南の安南にも遠征し、ここを直轄領とした。
更に永楽帝は世界中の国が明の権威を認めることを欲し、鄭和を長とする大船団を南海に派遣した。大航海は7度行われ、アフリカ大陸東岸にまでに達した。(7度目は孫の宣徳帝の時代に行われた)この船団は明と交易することの利益を諸国に説いて回り、明に朝貢することを条件に中小諸国がへ交易へやって来るようになった。
当時対立していた日本とも和解し、1404年(永楽2年)、足利義満は永楽帝の即位に祝賀の使節を送り、貿易を求めた。永楽帝はそれに対し、当時猛威を振るっていた倭寇の取締りを求めると同時に「日本国王」に冊封して朝貢貿易も許した。義満はこれに応え倭寇を厳しく取り締まり、対明貿易で巨額の利益を得た。日本では一般的に、この時、日本側と中国側で勘合と呼ばれる割符を使っていたためこれを勘合貿易と呼ぶ。
[編集] 文化政策
文化的には永楽大典・四書大全・五経大全・性理大全・歴代名臣奏議などを編纂させた。これには儒学者が建文帝のことを議論しだすのを先んじて封じた意味があったといわれる。
[編集] 歴史的評価
永楽帝は明の最大版図を築き、鄭和の大航海などの事業を起こすなど気宇壮大な人であった。洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝と言ってもいい。しかし洪武帝の宦官を重要な地位につけてはならぬという遺訓を無視したことは鄭和に限っては成功であったろうが、後代に宦官悪がはびこる要因を作った。
なお、永楽帝が宦官を重用したのは、靖難の変の際、建文帝の朝廷で低い地位に置かれていた宦官を味方につけ情報提供をさせていたからともいわれる。
[編集] 宗室
[編集] 父母
- 父 洪武帝
- 母 孝慈高皇后馬氏
[編集] 后妃
- 仁孝文皇后徐氏、中山王徐達の長女
- 昭獻貴妃王氏,蘇州人,1420年卒。
- 恭獻賢妃權氏,高麗人,父權永均,1410年卒。
[編集] 子
[編集] 女
- 永安公主
- 永平公主
- 安成公主
- 咸寧公主
- 常寧公主
[編集] 生母の問題について
永楽帝の母親についてだが、実際は高麗人の碽妃だったと考えられている。しかし、永楽帝自身は生母の身分が低いことを卑しみ、靖難の変の頃から洪武帝の皇后であった馬氏が母親であると主張し始めた。
なお、モンゴル側の史料である『アルタン・トブチ』や『蒙古源流』においては、永楽帝の生母は大元ウルスのトゴン・テムルの妃でコンギラト部出身の女性であり、洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、従って永楽帝はトゴン・テムルの子であると記されているが、中国側でも同様の俗説が広まっている。
また、その俗説の中において永楽帝の父親とされるトゴン・テムルもコシラの実子ではないと言われており、民間では南宋最後の皇帝恭帝の遺児であるという俗説があり、その俗説との関連性を指摘する研究者も存在する。
[編集] 外部リンク