歴史的スーダン
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歴史的スーダンとは、西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域で、かつイスラム教の影響下にある地域を漠然と指す地域名称である。歴史的スーダンの東部、東スーダンと呼ばれた地域にできた現在の国家名のスーダンと区別するために「歴史的スーダン」という。日本でも、アフリカを扱う歴史関係書では、しばしば単に「スーダン」とだけ記されることが多い。英語ではこの歴史的スーダン、多くの国にまたがるこの地域を「The Sudan」または「the Sudan Region(スーダン地方)」と呼び、国家名としてのスーダンを「(theをつけない)Sudan」と区別する。
[編集] 歴史
歴史的スーダンの「スーダン」は、アラビア語で「黒い人」を意味するal-Sūdānに由来する。歴史的スーダンは、北アフリカのアラブ人たちからみて南に住む黒色人種の居住地域、つまり Bilād al-Sūdān「スーダン(黒い人)の住む地」と呼ばれてきた地域のことを指すとかんがえてよい。
つまり、「サハラの向こう側に広がるスーダン人の住む隊商交易で繁栄した豊かな地域」とイメージされてきた地域のことであって、アフリカのギニア湾より南側は、歴史的スーダンには、漠然と含まれていないと考えられる。
歴史的スーダンには、多くの古代王国が興亡した。西アフリカ、西スーダンには8世紀~11世紀にかけてニジェール川沿いにガーナ王国がサハラ越えの隊商貿易の中継地として栄え、14世紀~15世紀に繁栄したマリ帝国、ソンガイ帝国(ガオ帝国、1464年~1590年)も同じようにして繁栄した。また同時期の中部スーダン、チャド湖北岸には、カネム・ボルヌ帝国が繁栄した。
これらスーダンの王国の繁栄ぶりは、北アフリカのアラブ商人やイスラム王朝の羨望の的であり、場合によっては嫉妬を引き起こしたとも考えられる。そしてガーナ王国は、1077年モロッコのムラービト朝により滅ぼされ、ソンガイ帝国は1590年にやはりモロッコのサアド朝に攻め滅ぼされた。
アフリカ分割によって西アフリカの広い部分がフランス領になると、その一部が「フランス領スーダン」と呼ばれるようになった。「フランス領スーダン」は、1960年4月に、マリ連邦が独立することによって消滅した。