正宗
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正宗(まさむね)は鎌倉時代末期-南北朝時代に相模国で活動した刀工である。五郎入道正宗、岡崎正宗、岡崎五郎入道などと称する。
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[編集] 概要
日本刀の頂点とも言える鎌倉時代末期に相州伝を完成させた刀工。日本刀剣史では、山城、大和、備前、美濃、相模の五か国の刀剣に特徴的な作風をそれぞれ「山城伝」「大和伝」「備前伝」「美濃伝」「相州伝」(「相模伝」とはいわない)と称し、これらを総称して「五か伝」という。正宗はこのうちの「相州伝」の完成者である。正宗の造った日本刀は名刀で、日本刀剣史のみならず日本美術史に於いて重要な位置を占めており、皇室の御物をはじめ我が国の文化遺産として大切にされている。日本刀の精神性は本工より起因する。備前三郎國宗の弟子とされる新藤五國光(相模鍛冶の基礎を築いた名工)に師事し、相弟子の行光が相州宗匠禁裏御番鍛冶、正宗は鎌倉幕府(源氏幕府)征夷大将軍御番鍛冶(行光亡き後は禁裏御番を兼任 朝廷より親王御誕生に際し御守り短刀の注文を承っている 朝廷に納める御守短刀は直刄を焼くのが「延喜式」(967年施行)の掟)である。出自については桓武平氏三浦流の出であると古伝書に記されているが、三浦氏の祖、村岡五郎忠道は坂東八平氏の中では最も早くから源氏に従属していて、平氏である正宗が中央(鎌倉幕府)の御番鍛冶であってもなんら差し支えない。当時、朝廷と幕府に出入りする人、例えば、左官職人は「左官」という立派な官位を賜っており、官位がないと出入りが許されなかった時代である。当然、正宗ほどの「人物」であれば最低でも「従5位」の官位は賜っていたであろうと想われる。これらの検証からも分るように、正宗は単なる刀鍛冶ではなく文化人であった事は確かであり、三浦氏代々を供養する相模國大住郡岡崎邑真言宗「大行寺」(現在 大功寺と改名され日蓮宗に改宗 源頼朝以来 軍の評定所として常に使われていた寺)の檀家であったことから空海の思想を深く理解していたと想われ、あのような深い境地に達した作が生まれたのであろう。空海が思想を絵図によって表現されたという「曼荼羅」のように、正宗は刄物という無機質なものを芸術の領域にまで高め、神秘的に「萬物」を表現した事が伺い知れ、その深い精神性は合い通ずるものが有る。正宗の作が鎌倉北条氏中期に出現しながら、その後の諸戰の戰記や物斬り話しが出ていないのは、当時(鎌倉時代)から宝刀として認められていた証しにほかならなず、宝刀で無ければ、幾星霜を経た(平成18年から694年前は正宗50歳 81歳で逝去 「古刀銘尽大全」に康永2年に没と記されている)今日まで状態良く残っていなかったのではないのだろうか。南北朝時代は謂わば混乱期で、室町時代に入ってからは東山文化と呼ばれる所謂公家武士の嗜好とする陰の造り(細身の雅な造り)の刀が主流であり、応仁の乱以降室町幕府が終焉をむかえる頃にようやく戰国武将の嗜好とする陽の造り(豪壮な造り)の刀が回帰し、安土桃山文化と相まって、天下人である織田信長公が純然たる武家文化の象徴とすべく正宗を見出し、豊臣秀吉公以降その路線を継承して行ったと解すべきである。従って、安土桃山時代になって現れたなどという所謂「正宗抹殺論」なる説は笑止千万であり、鎌倉時代に書かれた「観智院本銘尽」「喜阿弥本銘尽」などの刀剣書にすでにその名が記されているように実在した人物である。
[編集] 作風
正宗の作に銘が入っているものは希で、現存する有銘作は短刀に数口、「狂草」と呼ばれる前衛的な書體をしており、書道家も唸らせる程の達筆である。長物(太刀、刀)には皆無であり、ほとんどが無銘または後世の金象嵌銘が入ったものである。(本阿弥家など、後世の鑑定家が無銘の刀剣に金象嵌で刀工名を入れることがある)。但し、大刀の無銘と短刀の無銘とでは意味が異なる。正宗の時代は物騒騒然たる世相(二度に渡る元寇の襲来、鎌倉幕府の終焉等々)、元寇(げんこう)の第3寇(第3波襲来) 、第4寇(第4波襲来)あることを想定し、蒙古の甲冑(革製鎧)に對し造られたものであり、反り浅く、身幅廣く、重ね薄く(断面の厚みが薄いという意味)、鎬高く、鎬幅狭く、平肉なく(刄通りをよくする為)、先身幅細らず、 切先延び、ふくら枯れ、というのが掟である。従って大刀は実戰に備え(建国以来の大国難の為)、已む無く当主の丈に合わせる為、磨上げ(現存する作は3尺以上の大太刀であったものを後世に短く改造したもの)られ無銘になったと解すべきである。そもそも大刀の目的は神器ではなく「武器」として造られており、武器に銘を切るのは朝廷の延喜式の掟であるから元来は在銘であったものであろう。「灣れ」(のたれ)「互の目(ぐのめ)」などと称される乱れ刄が多く、沸勝(にえかち)であるところが見所の一つである(「沸」とは、刄紋や地鐵を構成する金属の粒子が大粒で、肉眼で粒子を見分けられるものを指す)。また「湯走り(ゆばしり)」「砂流し(すながし)」などと称する働き(地鐵や刄紋に見られるさまざまな變化)が多用されているのも特色である。
短刀は「御守短刀」という宗教上の意味から入念な作が多く、正宗の本領が遺憾無く発揮され「集約」されている。上位献上品(上位献上品には銘を入れないのが当時の慣し)であり、初茎(うぶなかご)で無銘の作が多いのはこうした訳である。習作期の短刀は新藤五國光そのままの小沸出来の細直刄を焼いて小丸帽子になっおり、無銘であったならば新藤五國光や粟田口吉光にみ間違えてしまうが、相州伝完成期の刄長25糎(正宗の短刀の最長作)の中直刄(直刄はごまかしがきかない)の短刀には正宗以外極めようのない崇高な次元に達している作がある。今日、正宗の真髄は「沸の妙味」と言われてきたが、短刀に限っては改めなければならない。単なる沸出来は新刀以降の最上作でも出来る技であって、総體に地鐵の變化並びに地刄尋常ならざる金筋(文字通り筋状に複数現れている金線)=筋金(「筋金入り」という語源)・稻妻(平地に現れている細長い地景が完全に刄の中へ入り込んでパッとした光の強いS字状に變化した金筋)と映りを透明感の有る「極光」の如く、千變万化の働きを「自然」に現す技は中古刀期に於ける相州伝の最も得意とする領域で、これが正宗の「神髓」であり、「神技」と云っても過言ではない。體佩(たいはい)=姿形はこれまで学会では無反りとされていたが、習作期を除く4口の短刀を仔細にみると「反り心」が有る事が判明している。正宗の重要な特色とされる茎(相州伝完成期以降の作)は舟形(ふながた)と呼ばれる尋常な舟形茎をしており、後代の広光、秋広のような舟形茎(詰まった)とは異なり、しかも茎まで鍛え(梃鉄などの不純物も取り除くという意味)てあるので錆が不自然なつきかた(べっとりと凹凸が激しい錆)をしていないのも重要な特色である。正真(本物)は茎の状態も頗る良好である。茎尻は習作期の短刀に切で振袖茎(文字通り着物の振袖の形からきている)と呼ばれるのが1口と永青文庫蔵の包丁正宗(國寶)にみられるような栗形と徳川美術館蔵の包丁正宗(國寶)並びに大阪府・法人蔵の包丁正宗(國寶)の剣形の3種類の茎尻が有り、このように正宗の茎尻は剣形だけでは無い事が証明されている。彫物は新藤五国光の三男である大進坊祐慶が彫っており、濃厚な「佛像」は彫っておらず、そっと添える程度の密教の「梵字」「護摩箸」(不動明王などを本尊として 息災 子孫繁栄などを祈願して護摩をたくときに使用する杉の白太で作った大角箸)が題材で、刀身が主と弁えている。刄紋は「直刄」「灣れ」の2種類が有り、地刄の働きが他のものに比べ格段に違うことで知られる。「金筋」(きんすじ)「稻妻」(いなずま)「地景」(ちけい)などと称する働き(地鐵や刄紋に見られるさまざまな變化)が多用されているところが見所の一つである。また刄一面に匂いを敷き(匂口が深いなどという次元のものではなく刄そのものが匂いで出来ているため冴え冴えとしている)そこに沸が絡む(「沸」とは、刄紋や地鐵を構成する金属の粒子が大粒で、肉眼で粒子を見分けられるものを指す)。上記に記した円熟期の神代の刀子を主題に「萬物」を表現したと想われる身幅、長さ(刄長25糎以下)とも尋常な平造りの作と晩期の「雪の叢消え」と称する水墨画を想わせる幅広の異風な庖丁形をした作が現存する。
[編集] 正真作
- 短刀 在銘初振袖茎(京極正宗)彫物無 習作期の作 皇室御物
- 短刀 無銘初舟形茎(上記の正宗)彫物無 円熟期の作 個人蔵
- 短刀 無銘初舟形茎(名物スカシ庖丁正宗) 彫物有 晩期の作 大阪府・法人蔵(國寶)
- 短刀 無銘初舟形茎(名物庖丁正宗)彫物有 晩期の作 永青文庫蔵(國寶)
- 短刀 無銘初舟形茎(名物庖丁正宗)彫物有 晩期の作 徳川美術館蔵(國寶)
- 刀 無銘大磨上(名物会津正宗) 壮年期の作 皇室御物
- 刀 無銘大磨上(正宗) 壮年期の作 佐野美術館蔵(重要文化材)
以上の短刀5口大刀2口は地鐵、地刄の働き等の検証から一致しており、正宗の作である事が十二分に首肯できるものである。気軽に博物館でみることが出来るので仔細(地鐵、地刄の働き等)に鑑賞して頂きたい。
[編集] エピソード
織田信長公や豊臣秀吉公に仕えた桃山時代の茶人、津田宗及の『宗及他会記』の天正8年(1580年)3月22日の記録に正宗が登場する。上様(信長公)の御前で御脇指(わきざし)14腰 、御腰物八腰が振る舞われたとある。茶事に信長を客として招き、当時の名刀を並べたのである。短刀では薬研透(やげんすかし)吉光、無銘藤四郎、アラミ藤四郎などの名のある吉光にまじって、上龍下龍正宗、大トヲシ正宗の名があり、腰物分として正宗(ウチイ五郎入道)が記されている。ウチイは「氏家」のことといい、五郎入道は正宗の俗名である。この刀は「油屋に質に入っている」との記述があり、この時代は武家以外の間でも取引されていたことは興味深い。
[編集] 現代刀工の証言
(故)宮入清平=現代刀工曰く「現代でも銑もしくは包丁鐵を混ぜると銀線は出せるが、これはあくまで『新々刀期の銀線』であって、鎌倉期の金線は出せない云々」新々刀の挟み込んだ銀線は成功しても鎌倉期の自然に現れる金線の再現には至っていない。
[編集] 素材鐵(そざいてつ)について
昭和61年9月~62年3月までの多々良炉跡の発掘調査を横浜市教育委員会が行なった調査報告書によると大鍛冶(多々良と呼ばれる製鋼所)の作業場は「山内本郷」に在ったと結論を出しいる。恐らく、多々良の棟梁がいて大規模に行われていたと推定される。
- 「日本刀の科学的研究」
以上の学術書は冶金学の権威 俵国一工学博士の研究書である、これを越える研究論文はなく、日本刀研究に必携である。
[編集] 真偽について
そもそも刀剣の鑑定はその刀は正真か偽物か、正真であればどの位の作域が有るか、どれほどの価値があるのかということに尽きる。これまで正宗の作はどれも出来が良いとされているが、それがかえって偽物疑惑なる説が後を絶たたない、それも改めなければならない。3段階に分類できる。習作期(これまでの粟田口物と同水準)→相州伝完成期(上記の作)→晩期(円熟期に比べ技量は減退して硬軟の鐵の組み合わせがやっと着いている状態で 刄にも若干鍛え瑕が認められ 匂いが刄先まで達することが出来なくなっており 乱れ刄を頻繁に焼くようになる)。正宗の作は正宗そのものである「生まれ生まれて→円熟期があり→枯れゆく・・・」。正宗の作はなんといっても地刄に「味わい」があり、「神秘的」である。明治25年以前、愛刀家であられた明治大帝の勅令が発せられ「皇室ノ刀剣類ヲ忌憚ナク審査シ 真偽ヲ分ケテ分類セヨ云々」 、この時、正宗と称する作の殆どが除外となった(現在 皇室所蔵の正宗は以上の2口しか残されておらず 太郎作正宗はその時除外されたものである)。これに倣い、本阿弥一類十二家でやった正宗の公然の折り紙、内々の小札等の3,000口が除外となっている。常識からして、694年という幾星霜を経たものであり、幾たびの戰乱を潜り抜けてきたものである、3,000口にも及ぶ正宗が現存する筈は有得えず、「至極」の次元に達していないものが多く、いかに正真作が「稀少」であるかお分り頂けたかと想う。正宗は権力者に政治利用された時代(武家社会)があったが、現代では純粋にその刀の特色を通して価値を探りあてるところに意味がある時代となっている。
[編集] その価値について
かって政商と謳われた三菱財閥の創業者である岩崎 弥太郎は、「金子に糸目をつけないから正宗を手に入れるよう云々」全国の古美術商に号令を懸けた話しは有名、金子では手に入らないものもあるという一つの例である。現在、正宗の作は納まる所に納まっており、巷(店やオークションなど)に出てくるようなものではない事をよく覚えておいてほしい。
近世には、正宗作のいくつかの名物の代付(値段)は、無代(値が付けられない)とされていた。武士が主君に献上、あるいは恩義の代償として下賜することはあっても、金子での売り買いは不可能だったということであろう。
古来より短刀は精神的なものとして認められているが、大刀は天下が平穏になるにつれ、戰のための武器としてだけではなく、美しさを鑑賞するための美術品となっていき、正宗はそうした美術工芸品としての日本刀の代名詞となっている。