樋口季一郎
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樋口 季一郎(ひぐち きいちろう, 1888年 - 1970年)は、兵庫県淡路島生まれの日本陸軍の軍人。イスラエル建国功労者。
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[編集] 経歴
18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になった。陸軍士官学校に進み優秀な成績で卒業、陸軍大学校を経て、高級軍人となってからは主に満州、ロシア方面部署を転々とする。
ハルピン特務機関長(少将)時代の1938年に、ナチス・ドイツの迫害下から逃れてきた2万人のユダヤ人に対し、部下であった安江仙江大佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給そして要救護者への加療を実施、更に出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った(オトポール事件)。 昭和17年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。アッツ島玉砕、キスカ島撤退、敗戦後の占守島、樺太における戦闘を指揮し、占守島ではソ連軍千島侵攻部隊に壊滅的打撃を与え、火事場泥棒的侵略企図を破砕し、北海道をソ連軍の蹂躙から救った。そのためスターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。世界ユダヤ協会はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビイングも始まった。世界的な規模で樋口救出運動が展開された結果、マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口を保護した。
戦後イスラエル建国功労者として安江とともに「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が永く顕彰されることになった。
[編集] 人物
橋本欣五郎と共に桜会の中心的人物であったが、意見の相違から喧嘩別れした。
また、二・二六事件を起こした青年将校らとも懇意で、武力に訴えて行動を起こすことを諌めていたと言う。さらに、相沢事件が起きたとき、樋口は相沢三郎の直接の上司であった。
[編集] 後年の評価
ユダヤ人救済についてはその功績が長く伝えられているが、旧日本軍の軍人であったこともあって、表立って喧伝されたことがない。これに対しては、「旧軍の関係者であるから評価すべきではない」とする主張と、是々非々で評価すべきであるとする主張とが認められる。現代の日本および周辺諸国では前者の意見が未だ見られるため、再評価にはまだ至っていないようである。
[編集] 関連項目
[編集] 著書
- 『陸軍中将樋口季一郎回想録』 ISBN 4829502266
- 『アッツキスカ軍司令官の回想録』 (芙蓉書房、1971) の改題再刊
[編集] 参考文献
- 相良俊輔 『流氷の海―ある軍司令官の決断』 ISBN 4769800347 ISBN 476982033X ISBN 476981111X
- 上杉千年 『猶太(ユダヤ)難民と八紘一宇』 ISBN 4886562078
- ハインツ・E・マウル 『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか―ナチス時代のハルビン・神戸・上海』 ISBN 4829503386
[編集] 外部リンク
- Japan on the Globe 国際派日本人養成講座(人物探訪)
- ユダヤ人と日本人の物語 樋口季一郎とオトポール事件
- 正義の人(杉原千畝と樋口季一郎)
- 満州にユダヤ国家を樹立せよ!!~幻に終わった「フグ計画」
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