榊原忠之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
榊原忠之(さかきばら ただゆき、明和3年(1766年) - 天保8年7月20日(1837年8月20日))は江戸時代の旗本。文政期・天保期の町奉行。旗本織田信義の四男織田信昆の三男。初名は信成。通称は権之助、隼人助、弥兵平衛、隼人助。官位は従五位下主計頭。
寛政8年(1796年)4月19日養父榊原忠尭の隠居により、家督を相続する。榊原家は下総国海上郡内などで700石を領有する旗本であった。文政2年(1819年)閏4月1日北町奉行に就任し、在任中、鼠小僧次郎吉や相馬大作の裁判などを担当した。天保7年(1836年)9月20日、長く要職をつとめた町奉行から旗本の名誉職である大目付に転任した。さらに、天保8年(1837年)5月16日留守居に転じたが、同年7月20日死去、享年72。
墓は芝増上寺塔中の安蓮社(現・東京都港区芝公園3丁目浄土宗安蓮社)境内に墓塔(宝筐院塔)のみある。
妻は藤懸永種の娘。勘定奉行や新潟奉行に就任した榊原忠義は長男。
[編集] 江戸幕府役職履歴
※日付=旧暦
- 1798年(寛政10)5月22日、小姓組衆と就る。
- 1806年(文化3)12月1日、小姓組番頭室賀信濃守正縄組衆から徒頭に異動。隼之助を称する。
- 1807年(文化4)6月1日、西丸(権大納言徳川家慶)目付に異動。
- 1808年(文化5)9月1日、目付に異動。
- 1814年(文化11)12月8日、小普請奉行に異動。 12月16日、従五位下に叙し、主計頭に任官。
- 1815年(文化12)6月17日、勘定奉行・勝手方に異動。 12月22日、公事方に異動。
- 1817年(文化14)3月1日、道中奉行を兼帯。
- 1819年(文政2)閏4月1日、江戸北町奉行に異動。
- 1836年(天保7)9月20日、大目付に異動し、供連掛を兼帯。
- 1837年(天保8)5月16日、留守居に異動。 7月20日、卒去。享年72
[編集] 関連項目
- 八百八町夢日記(榊原忠之を主人公としたテレビ時代劇シリーズ)