梅北一揆
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梅北一揆(うめきたいっき)とは、文禄元年(1592年)6月に、島津家家臣・梅北国兼が起こした一揆である。
豊臣秀吉による1回目の朝鮮半島出兵(文禄の役)の際、前線基地である肥前名護屋城へ向かうため船を待つ名目で肥後国葦北佐敷に留まっていた国兼は6月15日、城を治める加藤清正が朝鮮に出征中だった隙を突く形で佐敷城を占拠する。動機は、朝鮮出兵への反発とも、秀吉の支配に対する反発ともいわれる。
この一揆には田尻但馬、伊集院元巣、桂忠詮、東郷甚右衛門といった島津家臣が参加し、それぞれの手勢に農民や町人が加わった反乱軍の人数は七百人であったとも二千人であったともいわれる。
これまで国兼は6月17日、佐敷城の留守を預かっていた安田弥右衛門らの偽りの投降に油断し、境善左衛門によって斬殺され、一揆はわずか3日で鎮圧されたとされていたが、最近になって一揆勢は佐敷城を15日にわたって占拠していたという説が浮上した。いずれにしても一揆勢は麦島城や八代城を攻めたがいずれも失敗に終わり加藤氏や相良氏の軍勢によって鎮圧され、国兼は死亡した。国兼の首は名護屋城に届けられて浜辺に晒され、胴体は佐敷五本松に埋められたという。
この梅北一揆はもともと遅れ気味であった島津氏の文禄の役参陣をさらに遅らせてしまう結果となり、島津義弘をもってして「日本一の遅陣」と言わしめるほどの失態につながった。この遅陣は豊臣政権による島津氏への不信を招き、このため乱後、島津領内では浅野長政や細川藤孝らによる徹底した検地が行われる事になる。さらに朝鮮の役への軍役を拒否した[要出典]島津歳久が秀吉によって一揆の黒幕とみなされ、島津義久の追討を受けて死亡したほか、一揆に家臣が参加したという理由で阿蘇惟光が斬首された。
梅北一揆によって島津氏の政治的な立場は極度に悪化したが、検地やそれに伴う国人領主層の没落は結果として島津氏の大名権力を強化する事につながり、慶長の役で軍功をあげ名誉を挽回する契機となった。また事件後の処罰が苛烈だったことから、この後の大友氏改易事件などと共に豊臣政権になじまなかった九州の諸勢力を政権体制下に組みふせる効果があったとされる。
一方、国兼は旧領において神となり、現在も鹿児島県姶良郡姶良町北山に国兼を祀る「梅北神社」が残っている。
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