柳生厳包
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柳生 厳包(やぎゅう よしかね、寛永2年(1625年) - 元禄7年(1694年))は号を「連也斎」といい、新陰流第五世。柳生利厳(兵庫助)の三男で母・珠(利厳の妻)は島勝猛(左近)の末娘である。
幼少より剣術の才能に恵まれ、利厳の高弟、高田三之丞により指導を受ける。初めは母方の実家である島家を再興させる予定であったが、その才能が評価されて正室の子であった異母兄柳生利方をさしおき流派を継承する(尾張柳生家の家督は利方に譲られた)。「尾張の麒麟児」の異名を持つ。流祖、上泉信綱より柳生宗厳(石舟斎)、柳生利厳と連なる新陰流の剣術を完成させたのは厳包であると言われている(四世は、尾張藩藩主徳川義直に伝授)。
著書に『御秘書』、『連翁七箇條』。柳生拵、柳生鍔を考案。愛刀は備後守光世(拵えの形状から、籠釣瓶ともいう)とされる。また、主君である徳川光友の命による初心者のための訓練法である「取り上げ使い」を開発するなど、後進の育成にも力を尽くした。
生涯を独身で過ごし、死後は遺言によって遺骨は熱田沖の海上に撒かれたという。
厳包の後、尾張柳生氏は、尾張藩の兵法指南役として明治維新まで仕えている。
伝説があり、1651年に江戸城で催された「慶安御前試合」に兄、利方と共に参加。将軍、徳川家光に燕飛を上覧。後、柳生宗冬と試合を行って木刀で右拳を砕き勝利したとされる。