松本匡史
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松本 匡史(まつもと ただし、1954年8月8日 - )は、兵庫県尼崎市出身。昭和後期から末期(1970年代後半-1980年代)のプロ野球選手。右投両打、外野手。
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[編集] 来歴・人物
報徳学園高校を経て、早稲田大学では内野手として東京六大学のリーグ盗塁記録を塗り替えた。1977年、読売ジャイアンツにドラフト5位で入団。入団当初は右打であったが、1980年よりスイッチヒッターに転向。翌1981年から、俊足の外野手として柴田勲後の巨人の1番打者を担った。1982年、1983年に盗塁王を獲得。1983年に記録した年間76盗塁は現在もリーグ記録。青色の手袋をしていたことから、「青い稲妻」のニックネームを付けられる。
1987年現役引退。引退後は日本テレビの解説者を経て二軍監督、コーチに就任した。2002年からスカウトとしてフロント入り。2006年東北楽天ゴールデンイーグルスのヘッドコーチに就任したがわずか1年で辞任。1981年、1982年、1983年にゴールデングラブ賞を受賞するなど、守備での評価も高い。また走塁のために上下一体型の特注ユニホームを着用していた。
熱血漢としても知られ、かつて巨人の一塁コーチをしていた頃、打者走者の清水隆行がアウトと判定されたことに激昂し、逆に清水が止めにいくほど抗議したことがあった。
[編集] 通算成績
試合数 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1016 | 3250 | 902 | 29 | 1153 | 195 | 342 | 294 | 21 | 549 | .278 |
[編集] 背番号
[編集] その他
- 巨人から指名された当初、入団に前向きではなかった。理由としては、早稲田大学時代に肩の脱臼など怪我が多かったこと(そのことから、両親は松本を本名の哲から匡史に改名させた)や社会人野球へ進むことが決まっていたことが挙げられる。
- しかし、長嶋茂雄監督(当時)の強い希望から最後は正力亨オーナー(当時)が入社が決まっていた企業の野球部首脳陣に頼み、入団にこぎつけた。長嶋監督は「これからは松本のような足のある選手が必要になる」と考えていたらしい。
- 1987年にトレードの話が持ち上がると、松本は潔くユニフォームを脱いだ。今なお巨人歴代1番打者の中では「松本が一番だった」という声もある。
[編集] 関連項目
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