松平定基
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松平 定基(まつだいら さだもと)は、伊予今治藩の第4代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 貞享4年2月17日(1687年3月30日) | |||
死没 | 宝暦9年7月13日(1759年8月5日) | |||
別名 | 巌松丸、岩松(幼名) | |||
戒名 | 実仙本国院 | |||
諡号 | 甘裳 | |||
墓所 | 愛媛県今治市国分山の松平家墓地 | |||
官位 | 従五位下、美作守、采女正 | |||
藩 | 伊予今治藩主 | |||
氏族 | 松平氏 | |||
父母 | 父:松平定陳、母:溝口重雄の娘 | |||
妻 | 正室:松平直丘の娘 | |||
子 | 養子:松平定郷、1女(遊(松平定郷室)) |
1687年2月17日、第3代藩主・松平定陳の子として生まれる。1700年12月に従五位下、美作守に叙任する。1702年、父の死去により後を継いで采女正となる。藩政においては総社川の改修工事を行なうが、完成までには至らなかった。理由は工夫たちに賃金を支給せず、無理な工事を行なったためである。さらに藩内の士風が乱れたので粛清もした。