松園尚巳
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松園尚巳(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 1994年12月15日)は、ヤクルトスワローズのオーナーを務めた実業家。双子の兄は同じくヤクルトスワローズのオーナーを務めた松園直巳。
[編集] 来歴・人物
長崎県三井楽町(現・五島市)出身。法政大学卒業。1967年、ヤクルト本社の社長に就任(1988年3月まで21年)。1969年3月、経営が行き詰った産経新聞社からサンケイアトムズ(1969年アトムズを経て1970年にヤクルトアトムズに改称し、1974年からヤクルトスワローズとなる。その後2006年に地域密着型の球団を目指し東京ヤクルトスワローズに名称変更)を買収し、同球団のオーナーに就任。1991年3月に病気のため桑原潤と交代するまでチームに君臨した。
本社の社長としては1970年の「ジョア」、1975年の「ソフール」、1978年の「ミルミル」(現・「ビフィーネ」)、1980年の「タフマン」、1982年の「ミルミルE」などのヒット商品を生み出し(その後桑原が社長となった翌年の1989年に「ビフィール」を発売)、乳製品事業の強化を進めた。また、1975年には「ビオラクチス」を発売して医薬品事業に参入し、今日の隆盛の礎を築いた。1980年に発売した「タフマン」の成功を機に「珈琲たいむ」、「レモリア」、「フコイダン茶」に代表されるソフトドリンク事業への参入など多角化を推し進めた。
球団のオーナーとしては1971年に三原脩を招聘するが3年連続Bクラスに終わり、1973年に三原監督は退任。また、1974年には荒川博を招聘するが、1976年5月限りで辞任。後を継いだ広岡達朗監督のもと、1978年に初のリーグ優勝・日本一に輝いたが、1979年に広岡が球団と対立しシーズン途中で辞任。その後任として自身が寵愛していた生え抜きの武上四郎を擁立し1980年には2位に浮上するが、1981年以降チームは低迷し1984年の途中で武上監督が辞任。その後、元東映の土橋正幸を監督に就任させたが、1985年・1986年の2年連続最下位に終わり土橋監督が辞任。
1987年に元大洋監督の関根潤三を招聘するが、その翌年病で倒れ実質上の球団経営は本社の桑原副社長が取り仕切ることになった(桑原は1988年4月松園に代わり本社の社長に就任。翌1989年10月、球団オーナー代行に就任)。しかし関根の就任後もBクラスが続き1989年、3年契約の満了により関根監督は退任。桑原オーナー代行によりID野球の野村克也が招聘され監督に就任し、後述の「ファミリー主義」によるぬるま湯体質の一掃が図られることになった。1991年3月、20年以上務めたオーナー職を退任。これをもってヤクルトグループから完全に身を引いた。
自身が巨人ファンであることを公言し、「巨人戦には勝たなくていい」などの発言で物議を醸し、世間の非難を浴びた。また、トレード候補の選手が移籍に難色を示すと、トレードをご破算にしたり、2位に浮上しただけでご褒美の海外旅行を計画するなど選手をタニマチ的に可愛がり、これを「ファミリー主義」と称した。1985年に日本プロ野球選手会が労働組合として認定された際も、「ファミリー主義」であることと「本社が労働組合を結成していない」という理由で脱退させた(1989年に復帰)。これらの言動は「Bクラス体質やぬるま湯体質の温床となった」などの批判を受けた。自身がオーナーを務めた球団が15年ぶりに日本一に輝いた翌年の1994年12月15日、心不全のため死去。享年72。