東京スタジアム (野球場)
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東京スタジアム | |
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施設統計 | |
所在地 | 東京都荒川区 |
開場 | 1962年 |
所有者 | 株式会社東京スタジアム |
グラウンド | 天然芝 |
設計者 | |
使用チーム、大会 | |
大毎オリオンズ→東京オリオンズ→ロッテオリオンズ(1962年~1972年) | |
収容能力 | |
35000人 | |
規模 | |
両翼90m、中堅120m | |
フェンスの高さ | |
東京スタジアム(とうきょうスタジアム)は、東京都荒川区にあった野球場。通称・東京球場。運営会社名は、株式会社東京スタジアム。
目次 |
[編集] 歴史
映画会社・大映とプロ野球チーム大毎オリオンズのオーナーであった永田雅一が、これまで自前のグラウンドを持たなかった大毎のフランチャイズ球場を作ろうと、1962年、荒川区南千住の住宅街に建設した。敷地は千住製絨所の跡地であり、戦後この地に明治村を建設すべく敷地を購入した名古屋鉄道より特別に用地を譲り受けて完成・開場させた。同年6月2日にはパ・リーグ全6チーム参加による開場記念式を開催した。永田は、「大リーグのような設備を整えたボールパークを庶民が下駄履きで気軽に通える球場を作りたい」という夢を持っており、それを形にしたのがこのスタジアムだった。(開場当時はメインフランチャイズの大毎以外にも東映フライヤーズなど他球団主催の試合も一部行われていた)
しかし、肝心の大毎(1964年にチーム名を東京オリオンズに改める)の成績が低迷し、巨人軍を中心とするセ・リーグに人気が集中した事もあり、観客動員数は伸び悩む。1970年のリーグ優勝を当球場で決めたとき、ファンがグラウンドに乱入し選手に先立って永田オーナーを胴上げしたが、そのあくる1971年には親会社の大映が映画産業の不振から倒産し、球場の運営が手厳しくなったことから、永田は球場を手放さざるを得ず、小佐野賢治(国際興業社主)が経営を引き継いだ。しかし小佐野は球場の経営継続は困難と判断。球場と球団は一体経営が望ましいと、東京改めロッテオリオンズを引き継いだロッテ本社に球場売却の交渉を行ったものの頓挫。1972年シーズン終了後閉鎖に追い込まれ、数年間廃墟となっていたが、1977年に東京都によって解体された。現在同地は大半が荒川区が所有する総合スポーツセンターとなっており、体育館と軟式野球場がある。一部は移転した警視庁南千住警察署の敷地となっている。
尚「東京スタジアム」という名称はその後、調布市に建設された多目的スタジアムに付与されたが、2003年からネーミングライツにより味の素スタジアムに改称した。
[編集] 光の球場
アメリカ・サンフランシスコにあるキャンドル・スティック・パークを参考にした本格的なつくりで両翼90m、中堅120m、ナイター照明設備6基。内外野天然芝で、当時としては画期的な、1900ルクスの明るさを持つ照明を完備していた。
内野スタンドは二層式で、本格的スタンドとなっていた。等席毎に色分けしたカラフルなプラスチック製の椅子を使用。全ての座席がホームベースに向かうよう設計され、ファールグラウンドが狭く、内野フェンスも低かったため間近で選手のプレーが堪能できた。また画期的なバリアフリー構造(現在の野球場でも階段設計になっているものが大半を占め、スロープ型の通路を設置している球場は非常に少ない)となっていて、比較的ゆったりとした座席で試合を観戦できると好評だったほか、貴賓席として球界初のゴンドラ席を作った。セリーグに対抗意識を燃やしていた永田オーナーは「これだったら後楽園球場でも手も足も出らんだろう」とご満悦だったと言う。
まだ低層住宅の建ち並ぶ下町に、巨大なナイター照明が放つ光が周囲に瞬く光景から、「光の球場」とも呼ばれていた。しかし、ナイター終了後、照明が消えると夜蛾が一斉に周辺の民家になだれ込んだため、一種の公害にもなっていた。
屋内ブルペンの設置や、ゆったりとしたロッカールーム、医務室の完備等選手達にとっても理想の野球場であった。ロッテの醍醐猛夫は「前の球場では隣の選手と身体をぶつけながら着替えていたが、この球場ではのんびりイスに腰掛けて試合で火照った身体をコーラで癒すことができる」と言い、選手に大好評であった。しかし、用地の関係でグラウンドが狭く、とりわけ外野スタンドは一直線となって膨らみが無く、「本塁打量産球場」として投手泣かせの球場であった。阪神タイガースから移籍した小山正明投手はもともと「針の穴を通す」と評された制球力があったが、東京球場対策としてパームボールを考案した。また、1973年監督に就任した金田正一は現役時代400勝の実績を持つ大投手であったが、就任時「こんな投手泣かせの球場を買い取る必要はない」とロッテ本社に提言したため、ロッテオリオンズは東京球場からの撤退を余儀なくされている。
レフトスタンド下(一説にはグラウンド地下)にはボウリング場も併設。スタンド前のエントランス広場は都営バスの折返場となっていて、交通の便も良かった。シーズンオフには内外野のスタンドの椅子席の上にアイススケートリンクを設置。巨大な屋外スケート場となっていた。関東地区で最初にカップヌードルを販売したのもこの球場である。
[編集] 施設概要
- 所在地:東京都荒川区南千住6丁目
- 敷地面積
- グラウンド
- 両翼:90m、中堅:120m
- 内野:天然芝、外野:天然芝
- 照明設備:鉄塔6基
- 収容人員:35000人
[編集] 関連項目
- 日本の野球場一覧
- こちら葛飾区亀有公園前派出所 - 第82巻に、この球場を舞台とした「光の球場!の巻」を収録。テレビアニメ版でも「光の球場」が放送された。
- 帰ってきたウルトラマン - 第35話と第51話(最終話)にロケで使用。
[編集] 外部関連リンク
- 光の球場(千葉ロッテ・マリーンズファンサイト) このサイトで東京スタジアムについても触れている
前本拠地: 後楽園球場 (フランチャイズ制導入は1952年) 1950 ~ 1962.5 |
大毎オリオンズ→東京オリオンズ →ロッテオリオンズの本拠地 1962.6 ~ 1972 |
次本拠地: 県営宮城球場 (1973年のみ準本拠地) 1973 ~ 1977 |
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