本多重益
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛文3年(1663年) | |||
死没 | 享保18年2月25日(1733年4月9日) | |||
別名 | 成宗、成邦、成伸、成秦(別名) | |||
戒名 | 寂照無量院 | |||
墓所 | 東京都文京区小石川の無量院 | |||
官位 | 従五位下、飛騨守 | |||
藩 | 越前丸岡藩主 | |||
氏族 | 本多氏 | |||
父母 | 父:本多重昭、母:甘露寺嗣長の娘 | |||
兄弟 | 弟:本多重信 | |||
妻 | 正室:松平頼元の娘 | |||
子 | 実子なし 養子:本多重信、本多重修、 本多重貞、本多成興 |
1663年、第3代藩主・本多重昭の長男として生まれる。1676年、父の死去により家督を継いで藩主となる。1677年に従五位下、飛騨守に叙任する。
重益は信仰心は厚い人物だったが、藩主としては暗愚で、藩政は家臣に任せて自らは酒色に溺れたという。このため、家臣団内部で藩政の実権をめぐっての争いが起こる。太田又八は暗愚な重益を隠居させて弟の重信を新藩主として擁立しようとした(重信は早世したため、のちに重修に白羽の矢が立つことになる)。これに対して本多織部は暗愚な重益を傀儡として、自らは実権を掌握して思うがままに藩政を操ろうとした。この両派による争いは激化し、幕府も見捨てては置けず、遂に1695年3月23日、幕府は重益の家臣団統率がよろしくないとして改易に処し、重益は池田仲澄に身柄を預けられることになった。
1709年、徳川家宣が新将軍に就任すると、恩赦により罪を許され、1710年に2000石の旗本寄合組として復帰した。1733年2月25日に死去。享年71。
後を養子の本多成興が継いだ。