木村安兵衛
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木村安兵衛(きむら やすべえ、1817年(文化14年) - 1889年(明治22年)7月26日)は、江戸時代後期の武士、明治の実業家。株式会社・木村屋總本店の創業者。
父は長岡又兵衛で次男。妻は川原代村(茨城県龍ケ崎市)の木村安衛門の長女“ぶん”で、木村家の婿養子となる。常陸国河内郡田宮(たくう)村(茨城県牛久市)に生まれる。木村家の養子となった後、叔父を頼り江戸へ出て、番役などを務める。
明治には、新政府の東京府職業授産所の事務職となる。授産所で長崎でオランダ人宅のコックを務めた梅吉と出会い、1869年(明治2年)、東京の芝区日陰(港区新橋駅付近)に、木村屋の前身となる文英堂を創業。この年の火災で店を焼失し、翌年には京橋区尾張町(中央区銀座)に移り、屋号を木村屋に改める。
次男の英三郎や、パン職人の武藤勝蔵や協力で営業を再開し、1872年(明治5年)には、軍隊食として洋食を取り入れていた築地の紅玉社(のちの海軍兵学校)の御用達となる。9月に新橋・横浜間に鉄道が開通すると駅構内に販売店を出し、また脚気の治療食として効果があるという風聞の助けもあり、商売は繁盛する。1873年(明治6年)2月には再び大火で店を焼失する。
銀座が煉瓦街として再開発される最中、仮店舗での営業中には日本人に受け入れられるパンの研究を行い、小豆餡をパン生地でくるみ、発酵に酒種酵母を使用した「あんパン(酒種あんぱん)」を開発する。1874年(明治7年)に販売を開始すると反響を呼び、翌1875年(明治8年)には、縁のあった旧幕臣で侍従を務めていた山岡鉄舟の仲介で、同年4月に明治天皇が向島の旧水戸藩下屋敷訪問の際に、木村屋のあんぱんが茶菓子として献上され、宮中御用達となる。73歳で死去。