望月達也
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望月 達也(もちづき たつや、1963年4月20日-)は、静岡県出身のサッカー選手・指導者。現在はJリーグ・ベガルタ仙台の監督。
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[編集] 選手時代
清水東高校時代は伝説的なテクニシャンとして知られた。群を抜いてボールタッチが素晴らしく、当時のサッカー小僧達のアイドルだった。
清水東3年時の高校選手権、FWの沢入重雄やMFの反町康治らと共にエースとして活躍するも、準優勝に終る。
当時の高校選抜のメンバーとしてヨーロッパ遠征に行った際、オランダサッカー協会コーチだったハンス・オフトに見初められる。 卒業後はそのオランダに渡り、HFCハーレムとプロ契約を結ぶ。 日本人では奥寺康彦に次いで2人目の欧州1部リーグプレーヤーである。 5シーズンをオランダで過ごす。
帰国後、ヤマハ発動機サッカー部(現在のジュビロ磐田)に入団。期待されるも故障などでMFとして目立った活躍は無く、現役はSBとして終えた。
元日本代表の相馬直樹が現役時代、尊敬する選手に望月の名前をあげていた。
[編集] 指導者時代
27歳で引退後、2001年までヤマハ・磐田に、2002年~2003年にはアビスパ福岡に所属し、主に下部組織のコーチ・監督を務める。2004年からは湘南ベルマーレに移り、2005年からはトップチームコーチ。2006年からはベガルタ仙台のヘッドコーチ。
なぜか監督代行を務めることが多く、2002年以降に所属した全てのチームで監督代行を務めた。福岡・湘南では後任監督の人選が難航したことから、代行期間は合わせて3ヶ月近くに及んだ。また、仙台では監督のジョエル・サンタナの急病により、1試合のみだが代行を務めた。このため、代行だけでJリーグのリーグ戦の指揮を計15試合執っている(成績は5勝7敗3分け)。
2006年の仙台は後半の失速でJ1昇格を逃したが、紅白戦とシュート練習がほとんどのサンタナの練習に対し、部分的な場面想定を重視する望月の練習は選手からも概ね好意的に受け取られていた。こうしたチーム内の評判もあって、クラブは当初続投の方向だったサンタナを一転解任し、望月を昇格させることにした。望月にとっては都合4回目の監督業にして初めての正式な監督である。
[編集] 選手経歴
[編集] 指導経歴
- ヤマハサッカースクール:コーチ 1990.6-1991.5
- ヤマハ発動機:コーチ 1991.6-1993
- ジュビロ磐田:ユースコーチ 1994-1995
- ジュビロ磐田:サテライトコーチ 1996
- ジュビロ磐田:ジュニアユース監督 1997
- ジュビロ磐田:サテライトコーチ 1998
- ジュビロ磐田:ユース監督 1999-2000
- ジュビロ磐田:スカウト担当 2001
- アビスパ福岡:ユース統括 2002
- アビスパ福岡:監督代行 2002.8
- アビスパ福岡:ユース監督 2003
- 湘南ベルマーレ:サテライト監督 2004
- 湘南ベルマーレ:監督代行 2004.7-2004.9
- 湘南ベルマーレ:コーチ 2005
- ベガルタ仙台:ヘッドコーチ 2006(途中1試合のみ監督代行)
- ベガルタ仙台:監督 2007-
ベガルタ仙台 - 2007 |
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