日展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日展(にってん)は、日本を代表する美術展覧会の1つ。名称は、「日本美術展覧会」の略であり、またその展覧会を運営する団体の名。
官主導の美術展覧会、すなわち「官展」の系譜を引き継いでおり、公募展の中では最高の権威ではあるが、美術界ではその保守的な態度に批判の声も多い。榊莫山など、批判の意を表して退会する人もいる。
目次 |
[編集] 官展の系譜
- 文部省美術展覧会(初期文展):1907年-1918年
- 帝国美術院展覧会(帝展) :1919年-1935年
- 文部省美術展覧会(新文展) :1936年-1944年
- 日本美術展覧会(日展) :1946年-
[編集] 官展の歴史
明治中期には日本画の組織として旧派の「日本美術協会」と新派の「日本美術院」の対立構造が明確化していた。さらに黒田清輝の帰朝によって、西洋画も旧派の「明治美術会」と新派の「白馬会」という対立が発生する結果となった。このように美術界の抗争が激しくなる中で、これを調停する目的から文部省が各派を統合する形で国家主導の大規模な公募展、すなわち官展として開始したのが「文部省展覧会」(文展)である(これを「初期文展」とも呼ぶ)。
しかし明治40年(1907年)に第一回展が開催されるものの、その審査員の選定が問題となり、火種はくすぶったままであった。そして大正3年に横山大観が審査員を外されたことを遠因として日本美術院が再興するが、これを契機として大正以降は美術団体が更なる乱立を見せた。
大正8年(1919年)には「帝国美術院」の発足にともなって、「帝国美術院展覧会」(帝展)と改称する。しかし文相の松田源治は昭和10年(1935年)に挙国一致体制強化のために制度変更を敢行するが、これにともなう増員により美術界は紛糾(通称「松田改組」)、その結果展覧会そのものは芸術院より分離され再び「文部省展覧会」(初期文展に対して「新文展」と呼ぶ)となった。
1923年、1935年、1945年を除き、ほぼ毎年開催されている。ただし、1940年、1944年は、特殊な開催方式だった。
[編集] 日展の概要
戦後の1946年には、文部省主催の「日本美術展覧会」(日展)として再出発し、1948年に日本芸術院主催、さらに1949年からは日本芸術院と日展運営会共催となる。そして1958年からは「社団法人日展」が運営者となり、これにより官展でなくなっている。1969年の展覧会のみ「改組日展」という名称だったほかは、1958年以後の名称は日展で統一されている。
2007年に東京での会場を上野の東京都美術館から六本木の国立新美術館に移転することが決まっている。
[編集] 内容
最初期は「日本画」、「西洋画」、「彫刻」の3部門で、1926年から「美術工芸」が、1948年からは「書」が加わっている。