日奥
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日奥(にちおう)(1565年7月5日(永禄8年6月8日))~(1630年4月22日(寛永7年3月10日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日蓮宗の僧。京都の呉服商の家に生まれる。字を教英。号は安国院・仏性院と称する。不受不施派の祖。
1574年(天正2年)妙覚寺(京都府)日典を師として法を学んだ。1595年(文禄4年)豊臣秀吉が主催した方広寺大仏殿の千僧供養会へ出仕するかどうかで、本満寺(京都府)日重らの受不施派と対立した。日奥は、不受不施義を主張して妙覚寺(京都府)を去り、丹波国小泉に隠棲した。1599年(慶長4年)徳川家康による供養会にも出席せず、大阪対論により対馬に流罪となった。対馬にいること13年、1623年(元和9年)赦免となり、不受不施派の弘通が許された。1630年(寛永7年)受不施派と不受不施派の対立が再燃し、両者は江戸城にて対論した結果(身池対論)、日奥は、幕府に逆らう不受不施派の首謀者とされ、再度、対馬に流罪となったが、既に亡くなっており、その遺骨まで流されたとされる。