文安の麹騒動
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文安の麹騒動(ぶんあんのこうじそうどう)とは、室町時代、京都において酒造工程の一つである麹造りを支配していた座(北野麹座)が室町幕府の攻撃を受けて没落した事件。この結果、麹の専門業界は没落して酒屋業へ組み入れられた。
鎌倉時代から京都には酒屋が隆盛をきわめていったが、当時はまだ麹造りは酒屋の職業範囲ではなく、麹の製造から販売までをつかさどる麹屋が別個に存在した。麹屋は北野社(現在の北野天満宮)の神人(じにん)身分を得て「麹座」と呼ばれる同業者組合(座)を結成して北野社(本所)の権威を背景に京都西部の麹の製造・販売の独占権を有していた。
資本力をもった酒屋が業界の垣根をこえて麹造りにも進出し、北野麹座は強く反発した。だが、この頃、室町幕府が足利義満のもとで全盛期を迎えており、至徳3年(1386年)には延暦寺以下京都の有力寺社が京都の地域内において私的権力を行使する事が制限され(警察権の幕府への集中)、明徳4年(1393年)には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」が出され、幕府が京都の土倉・酒屋に対して座への加入を問わず一律に課税する事となり、本所の座への支配権は幕府の制限下においてのみ許されるという状況にあった。これには当時最大の本所勢力であった延暦寺などは強く反発したが、当時の義満の勢いの前にはなすすべもなかった。
この情勢に目をつけた北野麹座は幕府への運上金と引き換えに、応永26年(1419年)幕府は北野麹座に京都全域における麹の製造販売の権利一切を与え、京都の全ての酒屋は北野麹座から麹を購入する事が決定された。これに酒屋側が反発すると、幕府は兵を動員して「麹室」と呼ばれる酒屋付属の麹工房を悉く打ち壊した。
ところが酒屋の座の中には延暦寺を本所とするものがおり、彼らは延暦寺に麹座と幕府の行為を訴えた。当時北野社は延暦寺の傘下にあり、自己支配下の酒屋の衰退が運上金の減少を招くと考えた延暦寺は北野社に独占を止めるように求めた。だが、北野社側も自己の運上金収入に関わる問題でありこれを拒絶した。
麹座と酒屋、そして背後の北野社と延暦寺の対立はエスカレートし、文安元年(1444年)延暦寺は西塔釈迦堂に立てこもり、次いで京都に向けて強訴を行った。3年前の嘉吉の変以後その政治的影響力が減退していた幕府はこれに屈して北野麹座の独占権の廃止を認めた。これに対して北野麹座に属する神人らが北野社に立てこもった。これに対して管領畠山持国は4月13日に鎮圧の兵を北野社に差し向けた。これによって武力衝突に発展して死者も出した上、北野社一帯が炎上したが幕府側が付近の制圧に成功した。その結果、麹屋側は酒屋側に屈服して京都における麹座は衰退した。また、政治的には京都における幕府の支配力の低下が明らかとなり、京都における有力寺社の影響力も復活した。その後、麹屋側の巻き返しにより天文14年(1545年)には再度北野麹座による麹の独占が許されるものの、室町幕府の権威が完全に失墜した状況下では時は既に遅く、やがて麹造りは酒屋業の一工程となった。
またこの事件は、奈良の『菩提泉(ぼだいせん)』『山樽(やまだる)』『大和多武峯(たふのみね)酒』、越前の『豊原(ほうげん)酒』、近江の『百済寺酒』、河内の『観心寺酒』などの僧坊酒が台頭する一因ともなった。