悪人正機
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悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ用語で、「悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の根機である」という意味。つまり、阿弥陀仏が本当に救いたいのは悪人であり、善人は自らの力で成仏を目指せるので、眼目ではないというものである。
ここで「善人」「悪人」をどのように見ているのかがもっとも大切な部分である。もちろん法的な善悪を問うているのではなく、阿弥陀仏の真実に照らされたときに自らが悪人であるということを自省した上での悪人である。つまり、真実に目覚めたときに、自らが何ものにも救われようがない悪人であることに気付かされ、すべての衆生を救うとの本願によって救済の本当の目標が悪人である自分自身であったと気付かされるすがたを悪人正機と言うのである。ここに「親鸞一人がためなり」と阿弥陀仏の本願に救われていることを喜ぶ親鸞の法味がある。
この説は悪をただ無条件に許容するものではない。どこまでも悪の誘惑に打ち勝とうとすべきものであるが、善に励もうとすればするほど、真に悪に打ち勝てない自分を悲嘆するのである。
[編集] ごく平易な言い方
- すべての人が悲しみ苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察された法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その48の願いの第18番目の願いに、私を信じて、私の作った仏国土に生まれたいと思って、私の名前を呼んだものは、すべて人を私の国土に生まれさせて、私の指導によって、ゆるぎない幸せな「仏陀」にさせよう、とある。
だから、我々が善いことをしようが悪いことをしようが、救われることに違いはない。しかし、善いことをしようと思うのは阿弥陀仏の誓願の働きを疑っているのではないかという理由1や、善いことをしようにも自分自身にその善悪の判断基準がないという理由2や、何を行うにしろ我々には欲望がありそれによる行為はすべて悪いことでしかないという理由3で、我々の行為すべてが「悪」でしかない。
それなのに、すべての人を救いとろうとされるのは、この「悪人」が阿弥陀仏の救いの目標である、とするのが「悪人正機」の意味である。
さらに、親鸞は自らを内省することによって、このような阿弥陀仏が誓願を起こして仏となったのは、親鸞一人のためであったと、阿弥陀仏の働き(他力本願)を自己のものと理解した。この点で親鸞の宗教者としての独自性があり、他の追随できない部分である。
以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。
- 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
- この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
- そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。(歎異抄第3章)
- 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。‥‥(中略)‥‥しかれば御釈(玄義分)にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。(口伝鈔 覚如著)
[編集] 親鸞以前の悪人正機説
この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗の法然が、7世紀の新羅(現在の大韓民国)の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。
- 四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。
このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫(ぼんぶ)の救済を目標としていることは指摘されていた。
法然も選択集(せんじゃくしゅう)に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。
しかし、法然はどこまでも善を行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は悪を慎み善を努めることを勧めたのである。