得能関四郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
得能関四郎(とくのう かんしろう 1842年(天保13年)-1908年(明治41年))は剣術家。沼田藩士・得能隼人の子。名は通久。
1856年(安政3年)、剣術指南役・直心陰流の長沼恂教(笑兵衛)に入門。修行の間に塾頭を務めている。
1871年(明治4年)の廃藩後は、東京で市中取締役として勤務。
1880年(明治13年)、警視庁に雇用、警護掛に任命される。
1883年(明治16年)、警視庁撃剣世話掛と関西剣客代表との対抗戦で高山峰三郎に完敗。
1884年(明治17年)、宮内省済寧館大会で、松崎浪四郎に引分け。同年、向ヶ岡弥生社での全国的な大会で松崎浪四郎に勝利。
1895年(明治28年)、大日本武徳会演武大会で奥村左近太に勝利する殊勲を挙げることにより範士になる。
1908年(明治41年)死去。病気を苦にしての自害といわれる。
関四郎は警視庁撃剣教師などを歴任している。また晩年は、根岸信五郎、真貝忠篤とともに東都剣道界三元老と呼ばれた。また籠手打ちを得意とし、それで勝利することが多かったといわれる。