徐世昌
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徐世昌(じょせいしょう、簡体字:徐世昌、ピンイン:Xú Shìchāng, 咸豊5年9月10日(1855年10月20日) - 民国28年(1939年)6月5日)は清末民初の官僚政治家。中華民国第4代大総統となる。字は卜五、号は菊人、東海など。引退して後は退耕堂とも。
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[編集] 袁世凱を若年時代から知る
本籍地は河南省汲県だが、直隷・天津で生まれ育っている。徐の家系は代々官僚を出す名家であったが、徐の父が早く死んだことなどから家は零落した。徐もまた科挙によって官僚となることを目指したが私財がないために、勉強の傍らで河南省各地の官僚の書記や、郷学の教師になっていた。そうした中、光緒8年(1881年)に科挙の大きな関門の一つである郷試に合格した。
徐の家と袁世凱の家とは元々つながりがあり、二人は若い頃からお互いを知り合っていた。当時浪人状態で暴れ者であったという袁と、穏やかで学問を好んだ徐とは大きく性格は異なりつつも、親密な交わりを結んだ。袁が徐に勉強資金を援助していたともいう。この二人の関係は袁が死去するまで続いた。
[編集] 清朝の官僚となりつつ、袁を支える
徐は光緒13年(1886年)に科挙に最終合格し、しかもエリートコースとされる翰林院に配属されたが、途中母の喪に服するなどしてなかなか出世できなかった。徐が一気に出世を始めるのは光緒22年(1895年)、袁世凱の作った新建陸軍の参謀になってからである。徐は文官で軍事に暗く、参謀の任には不適任といえた。しかし袁からすれば、官吏としての正統な道である科挙に合格し(袁は科挙は合格していない)、伝統的な教養もあり、かつ古くから親しい関係にある徐世昌が傍らにあり、助言することは彼が清朝の官界を遊泳していくうえで大きな意味があった。その後、徐は袁の昇進に引きずられるようにとんとん拍子に昇進し、東三省総督、郵伝部尚書など要職を歴任した。
ところが宣統元年(1909年)、袁世凱は満州貴族のために失脚してしまう。力を握った満州貴族らから袁の北洋軍を解体する声があがり、徐も弾劾を受けた。しかし、いまや唯一の清朝の軍事力である北洋軍を解体するわけにはいかず、また北洋軍の諸将と友好的な関係を持つ唯一の高級官僚である徐世昌を野に下すわけにはいかなかった。また政治的に無能な満州貴族としては、徐の行政的な能力は必要だった。こうして徐は、中央にあって河南省で隠棲する袁に情報を送り続けた。
宣統3年(1911年)5月には内閣協理大臣となり、さらに10月には軍諮大臣となり、太保の称を賜った。
[編集] 袁の民国を遠巻きに見守る
辛亥革命の後、政権を握ったのは彼が長く支えてきた袁世凱であったが、彼は自らが清朝の旧臣であることを持し、極力要職に就かず、相談役的位置に終始した。袁の度重なる要請で国務卿になったことが二度あるが、いずれもすぐに辞職している。民国4年(1915年)12月の袁の皇帝就任宣言に際しては、時期尚早として反対した。
[編集] 中華民国大総統として自らが矢面に立つ
民国5年(1916年)6月、袁世凱死去。徐は袁の故郷・河南省に赴き、数ヶ月間弔った。その後も政権から遠巻きの位置を崩さなかったが、軍閥同士の争いの調停などを頼まれてよく行っていた。その軍閥の一人、直隷派の馮国璋の要請で民国7年(1918年)第4代中華民国大総統となった。当時馮と対立していた安徽派の段祺瑞や奉天派の張作霖もこれには賛同した。
北洋軍閥では袁に次ぐ位置にいた徐だが、彼自身は文官の出であり軍事力を持っていない。彼に期待されたのは在野時代から行っていた軍閥間の調停だった。彼はまず、直隷派と安徽派の調和を試み、さらに北京政府と孫文などの革命派を含む南方の諸勢力との周旋に努めたが、いずれもうまくいかなかった。また、第一次世界大戦のどさくさに日本がドイツから奪った膠州湾の利権を取り戻そうとしたが、ベルサイユ条約でこれは否定され、怒った中国の民衆は五・四運動に走った。
さらに前政権の国務総理であった段祺瑞が日本などから得た借款をあまりに浪費してしまうので、政権の内外から不評を買い、統治能力まで疑われた。結局民国11年(1922年)に直隷派によって大総統を辞任させられた。
その後は政界から引退し、天津で漢籍の収集・整理など悠々自適の余生を送った。隠居中の民国26年(1937年)に日中戦争が勃発、天津周辺は日本軍に占領された。徐は板垣征四郎や土肥原賢二らによって傀儡政府への参加を求められるが、これを断固として拒否、晩節を保った。
彼の著述としては、自らの書簡集である『退耕堂政書』、また東三省総督時代にその地域に行った施策を記した『東三省政略』がある。また、学者を集めて『清儒学案』など多くの編纂事業も行っている他、『新元史』を正史と認定する大総統令を出した事でも知られている(二十五史)。