川崎正蔵
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川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1838年7月10日-1912年12月2日)は薩摩の呉服商人の子として生まれた日本の実業家で貴族院議員、華族。位階勲等は従五位勲三等、爵位は男爵。川崎造船所の創立者である。
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[編集] 正蔵の生い立ち
1852年に彼の父、利右衛門を亡くした二年後の1854年に、当時唯一の西洋文化の玄関口である長崎に出て貿易商としての修行を積み、27歳のときに大阪に進出して回漕業を営んだが、持ち船の遭難によって失敗に終わり、1869年に彼の故郷である薩摩の藩士が立ち上げた琉球糖を扱う会社に就職した。この経験が新政府に買われて1873年には大蔵省から琉球藩の砂糖調査や航路調査等を命じられた。 その翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させた。新政府の琉球政策に対して彼は「武力によらず、信義を重んじ、親愛の情を持って誠意を尽くすことが最良策」と建議したため、琉球藩と新政府の仲は好転し、1879年に琉球藩は沖縄県が誕生した。
1878年11月に、同郷の先輩であった松方正義等の援助があって、東京は築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いにある官有地を借りて川崎築地造船所を立ち上げた。1886年に、官営工場であった兵庫造船所の払い下げを受けた後は造船道具一式を神戸に移した。1896年に川崎造船所と社名を変更したと同時に、初代社長に松方幸次郎を就任させた後、正蔵は造船業から引退した。
造船業から引退した後の正蔵は、内地と朝鮮の土地経営に乗り出しながら、神戸川崎銀行や今日の神戸新聞社等の創立者として、さらに高名な美術収集家として活動したが、1912年12月2日に神戸布引の自邸で76才の生涯を終える。戒名は「徳光院殿豁堂恵然大居士」。
[編集] 正蔵の逸話
1890年の第一回帝国議会開設の際、正蔵は兵庫県選出貴族院多額納税議員になっていた。また、彼の墓地も神戸市中央区に彼自身が建立した徳光院にある。
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