岡崎邦輔
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岡崎 邦輔(おかざき くにすけ、嘉永7年3月15日(1854年4月12日) - 1936年7月22日)は、日本の政治家。号は晩香。
自由党を経て、立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた。
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[編集] 経歴
嘉永7年3月15日(衆議院に提出した履歴による。嘉永6年・1853年説もあり)紀伊国紀州藩士、長坂角弥の二男として生まれる。生家の長坂家は紀州徳川家に仕える家系で知行400石で町奉行、勘定奉行を務める家柄であった。また、岡崎の母親は陸奥宗光の母親と姉妹で陸奥と岡崎は従兄弟の関係にある。
明治維新後の1873年(明治6年)に従兄弟の陸奥を頼り上京する。1888年(明治21年)駐米特命全権公使となった陸奥に従い渡米する。アメリカで岡崎はミシガン大学で学び、この時期南方熊楠と出会っている。1890年(明治23年)に帰朝し、翌1891年(明治24年)に衆議院議員に当選する。以後当選回数10回。1897年(明治30年)自由党に入党する。陸奥の没後は、星亨に接近し、星の快刀として隈板内閣倒閣、立憲政友会結成などに活躍する。1900年(明治33年)第4次伊藤内閣の逓信大臣となった星亨のもとで逓信大臣官房長を務めたが、翌1901年(明治34年)星は刺殺されてしまう。
1912年(大正元年)立憲国民党の犬養毅、政友会の尾崎行雄らとともに第3次桂内閣の倒閣に動き、憲政擁護運動を展開する。1915年(大正4年)政友会総務委員に就任する。西園寺公望の政友会総裁辞任後は、自身と同じく陸奥宗光の引き立てを受けた原敬を支え、1918年(大正7年)原内閣が誕生した。
1921年(大正10年)原が東京駅で遭難後は政友会刷新派を支持し、第2次護憲運動で活躍し清浦内閣倒閣と、憲政会総裁加藤高明を首班とする護憲三派内閣成立に動いた。1925年(大正14年)加藤高明内閣の農林大臣として入閣する。1928年(昭和3年)貴族院議員に勅選される。
1936年(昭和11年)7月22日死去。82歳。
[編集] 関連書籍
[編集] 自叙伝
- 『憲政回顧録』
[編集] 伝記
- 『晩香岡崎邦輔』小池龍吉著
- 『岡崎邦輔伝』平野嶺夫著
- 『岡崎邦輔関係文書・解説と小伝』伊藤隆・酒田正敏共著、自由民主党和歌山県連合会刊行