山極勝三郎
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山極 勝三郎(やまぎわ かつさぶろう、1863年 - 1930年)は、日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。
幕末の上田藩(現在の長野県)に生まれる。同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年に東京帝国大学予備門、1885年には医学部に入学し、卒業時は主席という成績を残す。1891年からドイツに留学、帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。特に癌研究では日本の第一人者であった。1889年には肺結核を患うものの療養を続けながら研究を行う。1915年には世界ではじめて化学物質による人工癌の発生に成功。1923年には帝大を定年退官。1930年、肺炎で逝去する。
[編集] 幻のノーベル賞
当時、癌の発生原因は不明であり、主たる説に「刺激説」「素因説」などが存在していた。山極は煙突掃除夫に皮膚癌の罹患が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始する。その実験はひたすらウサギの耳にコールタールを塗布し続けるという地道なもので、すでに多くの学者が失敗していたものであった。しかし、山極は実に3年以上に渡って反復実験を行い、1915年にはついに人工癌の発生に成功する。
その一方で山極による人工癌の発生に先駆けて、デンマークのヨハネス・フィビゲルが寄生虫による人工癌発生に成功していた。当時からフィビゲルの研究は一般的なものではなく、山極の研究こそが癌研究の発展に貢献するものではないかという意見が存在していたにもかかわらず、1926年にはフィビゲルにノーベル生理学・医学賞が与えられた。
後年、フィビゲルの研究はごく一部のネズミにのみ再現可能であることが実証されており、現在の人工癌の発生、それによる癌の研究は山極の業績に拠るといえる。
当時の選考委員のひとり、スウェーデンのフォルケ・ヘンシェンは来日した際に「山極にノーベル賞を与えるべきだった」と当時の選考委員のミスを悔やんだという。また、選考委員会が開かれた際に「日本人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明かしている。原則としてノーベル賞の選考は非公開とされているが、フィビゲルの受賞はノーベル賞最大の汚点ともいわれていることから贖罪の意味もこめて明かしたのではないかとされている[要出典]。
[編集] その他
- 癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩
- 人工癌を確認した際に詠んだ句。
[編集] 関連項目
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