小沢佐重喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小沢 佐重喜(おざわ さえき、明治31年(1898年)11月25日 - 昭和43年(1968年)5月8日))は日本の政治家、弁護士。衆議院議員(10期)。正三位勲一等。
吉田茂の側近の一人。日米安全保障条約改定において、衆議院安全保障条約等特別委員長を務め、安保改定実現に大きな役割を果たした。民主党代表、小沢一郎の父親である。
目次 |
[編集] 概要
- 明治31年(1898年)11月25日岩手県水沢町(現・奥州市水沢区)の農家に生まれる。経済的に恵まれず小学校5年で退学しいったん職につくが向学の念やみがたく上京、大正12年(1923年)日本大学法学部夜間部を卒業し、同年中に司法試験に合格し翌年弁護士事務所を開業する。
- 東京市会議員、東京府会議員を経て、昭和21年(1946年)戦後初の総選挙である第22回衆議院議員総選挙に旧岩手2区から立候補し衆議院議員に当選する。以後、当選通算10回。自由党に所属し、吉田茂に重用される。昭和23年(1948年)第2次吉田茂内閣の運輸大臣、昭和24年(1949年)第3次吉田茂内閣の逓信大臣、初代郵政大臣兼初代電気通信大臣、昭和29年(1954年)第5次吉田茂内閣の建設大臣を歴任する。
- 昭和30年(1955年)保守合同、自由民主党に参加する。国会内の調整力に長けたことから、岸信介から日米安全保障条約に関する特別委員長に指名され、安保改定を実行した。昭和35年第2次池田勇人内閣で行政管理庁長官、北海道開発庁長官に就任した。
- 長年、小選挙区制の導入を唱え、その遺志は息子の小沢一郎に引き継がれる。
- 小沢が入閣した時、首相である吉田が昭和天皇に閣僚名簿を上奏した時に誤って名前を「さじゅうき」と読み上げてしまったところ、昭和天皇から誤りを指摘された事がある。
- また、押しの強さから、「闘牛」の異名をとった。
[編集] 年譜
- 1898年11月:農業・小沢徳太郎・トメの二男として岩手県水沢町(現・奥州市水沢区)に生まれる
- 1910年:宮城県仙台市へ丁稚奉公にでる
- 1923年3月:日本大学法学部夜間部卒業
- 1923年12月:弁護士試験合格
- 1924年3月:東京市下谷区御徒町に弁護士事務所を開業
- 1929年3月:東京市会議員に当選
- 1936年5月:東京府会議員に当選
- 1946年4月:衆議院議員に当選
- 1946年6月:運輸大臣秘書官に就任
- 1948年10月:運輸大臣に就任
- 1949年2月:逓信大臣に就任
- 1951年:全国自家用自動車協会長に就任
- 1953年1月:自由党代議士会長に就任
- 1954年6月:建設大臣に就任
- 1960年12月:国務大臣行政管理庁長官兼北海道開発庁長官に就任
- 1961年6月:外務大臣臨時代理を兼任
- 1968年5月8日:心不全のため東京慈恵会医大病院で死去。叙正三位・叙勲一等・旭日大綬章を授かる
[編集] 家族・親族
- 父・小沢徳太郎
- 母・トメ
- 妻・みち(旧姓荒木氏)
- 長女・スミ子
- 二女・則子
- 長男・一郎(政治家)
[編集] 関連項目
- 郵政大臣
- 初代: 1949 - 1950
-
- 先代:
- 発足
- 次代:
- 田村文吉
- 電気通信大臣
- 初代: 1949 - 1950
-
- 先代:
- 発足
- 次代:
- 田村文吉
- 北海道開発庁長官
- 第20代: 1960 - 1961
-
- 先代:
- 西川甚五郎
- 次代:
- 川島正次郎