夷隅郡
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夷隅郡(いすみぐん)は、千葉県の郡。人口19,370人、面積154.75km²。(2005年)
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[編集] 郡域
現在、以下の2町を含む。
平成の大合併以前の郡域は以下の通り。
- いすみ市、大多喜町、御宿町 - 全域
また、昭和の大合併以前の郡域は以下の通り。
[編集] 地理
御宿町は太平洋に面する。大多喜町は房総丘陵に属する山林地帯である。郡域の中央部(大多喜町)を夷隅川が貫流する。
[編集] 隣接する自治体
[編集] 歴史
古くは古事記に「伊自牟(いじむ)」、日本書紀に「伊甚(いじみ)」として登場する地名であり、日本書紀には朝廷の直轄地として「伊甚屯倉(いじむのみやけ)」が置かれたとの記述が存在する。郡名としては様々な当て字が用いられてきたが、江戸時代初期に「夷隅」の字が当てられ、定着したとされている。
本郡は、1889年の明治の大合併直前には165町村を数えたが、大合併により23町村に再編された。郡役所は大多喜町に置かれた。戦後、昭和の大合併と勝浦市の市制施行を経て、1961年8月1日に太東町と長者町が合併して岬町が発足したことにより、長らく5町による体制となった。その後、平成の大合併では、紆余曲折を経て2005年12月5日に夷隅町、大原町、岬町が合併し、いすみ市が発足したことにより、現在の2町の体制となった。
[編集] 平成の大合併
平成の大合併では、勝浦市を含む夷隅郡市1市5町による大合併を模索し、この枠組みによる新市「外房市」が誕生する予定であった。しかし、合併日も既に決まっていた中、勝浦市は市役所の位置や新市名などに反発。市議会は合併協議会離脱の決議を可決させるなどし、その結果、勝浦市が合併協議から離脱して破綻した。
その後、勝浦市を除く郡5町により再び合併協議が行われた。しかし、大多喜町が町議会で合併離脱の決議が可決されたことなどにより、結局、大多喜町が離脱、再び不成功に終わった。
さらにその後、勝浦市は御宿町と大多喜町に合併を打診するも、両町とも1市5町による合併を希望していたため、破談に終わった。一方で大原町は夷隅町と岬町に合併を打診し、任意合併協議会が設置された。このとき大原町は、大多喜町と御宿町にも合併の呼びかけをしたが、両町とも合併日までの時間が短いとして参加を見送った。
かくして、大原町・夷隅町・岬町の3町のみで新設合併・市制施行を行うこととなり、2005年12月5日に「いすみ市」が誕生、郡より離脱した。
[編集] 沿革
- 1889年4月1日 - 町村制施行に伴い、夷隅郡に大多喜町・旭町と21の村が成立する。(2町21村)
- 1890年3月12日 - 勝浦村が町制施行し勝浦町となる。(3町20村)
- 1893年9月22日 - 国吉村が町制施行し国吉町となる。(4町19村)
- 1899年12月22日 - 中魚落村が町制施行・改称し大原町となる。(5町18村)
- 1900年7月25日 - 旭町が長者町に改称。
- 1914年4月1日 - 御宿村が町制施行し御宿町となる。(6町17村)
- 1921年1月1日 - 清海村が町制施行・改称し興津町となる。(7町16村)
- 1937年4月1日 - 勝浦町・豊浜村が合併し、勝浦町が発足。(7町15村)
- 1953年7月1日 - 長者町・中根村が合併し、長者町が発足。(7町14村)
- 1954年4月29日 - 国吉町・千町村・中川村が合併し、夷隅町が発足。(7町12村)
- 1954年10月5日 - 大多喜町・総元村・西畑村・上瀑村・老川村が合併し、大多喜町が発足。(7町8村)
- 1954年12月1日 - 古沢村が長生郡太東村と合併し、太東町が発足。(8町7村)
- 1955年2月11日 - 勝浦町・興津町・上野村・総野村が合併し、勝浦町が発足。(7町5村)
- 1955年3月31日(7町1村)
- 大原町・東村・東海村、布施村・波花村の一部が合併し、大原町が発足。
- 御宿町、布施村・浪花村の残部が合併し、御宿町が発足。
- 1955年7月20日 - 瑞沢村が長生郡土睦村、同郡長南町の一部と合併し、長生郡睦沢村が発足、郡より離脱。(7町)
- 1958年10月1日 - 勝浦町が市制施行し、勝浦市となり郡より離脱。(6町)
- 1961年8月1日 - 太東町・長者町が合併し、岬町が発足。(5町)
- 2005年12月5日 - 大原町・夷隅町・岬町が合併し、いすみ市が発足、郡より離脱。(2町)