増山正同
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
増山 正同(ますやま まさとも)は、江戸時代の大名。伊勢長島藩の第8代(最後)の藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代末期から明治時代 | |||
生誕 | 天保14年2月29日(1843年3月29日) | |||
死没 | 明治20年(1887年)4月22日 | |||
官位 | 従五位、備中守、贈従四位 | |||
藩 | 伊勢長島藩主 | |||
氏族 | 永井氏→増山氏 | |||
父母 | 父:[幕臣五百石西丸目付永井三左衛門直方二男][母:幕臣一百俵桜井藤兵衛貞固の娘 養父:増山正修 |
|||
妻 | 正室:紀伊和歌山藩徳川家付家老で紀伊新宮城主の水野忠啓の娘・喜美子(真如院) | |||
子 | 増山正治 |
1843年2月29日幕臣五百石で後に西丸目付を勤める永井三左衛門直方の次男として生まれる。通称は勇之助、隼人、大学。官位は従五位下、官名は備中守。最初1852年長島藩分家で幕臣一千俵小普請組増山銀之助の跡を相続し、小普請組に編入された。1861年には御書院番士、1866年には御使番に就任し、そのまま明治維新を迎える。その後、1869年には横須賀奉行支配に編入され、静岡県安西4丁目水口屋源右衛門方に寄留していたことがわかっている。同年第7代藩主・増山正修の嫡子正方が廃嫡となった為、正修の養子となり、正修が死去したために家督を継いで藩主となった。同年6月24日に版籍奉還で藩知事となり、1871年7月15日の廃藩置県で免官となる。
その後は東京に移住し、1876年には宮中祀候、のちに侍従にまでなった。1887年4月22日に死去。享年45。墓所:東京都文京区小石川の蓮華寺。
実父については伊藤重信著「長島町誌」上(1974)以降、大和新庄藩主永井直方と言われてきたが、以下の点で誤りである。 ①新庄藩主永井直方の没年1825年と正同の生年が合わない。 ②新庄藩主永井直方の幼名・通称に「三左衛門」はない。 ③東京大学史料編纂所所蔵「華族明細短冊」に「実祖父永井大江直和(銲七郎)亡。旗下非 役。実父永井大江直方(三左衛門)亡。旗下非役」とあって明らかに新庄藩主とは異なる記 述があること。
参考文献 「伊勢長島増山家譜」(東京大学史料編纂所所蔵) 「江戸幕臣人名事典」(新人物往来社)より「増山勇之助」の項。 「華族明細短冊」(東京大学史料編纂所所蔵) 「駿遠へ移住した幕臣たち」3(前田匡一郎著・刊) 「長島町誌」上(伊藤重信著 同町教育会刊)