坂崎直盛
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坂崎直盛(さかざき なおもり、永禄6年(1563年) - 元和2年9月11日(1616年10月21日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名。宇喜多忠家の子。初め宇喜多氏、のちに坂崎氏を称する。詮家、直盛、知家、直行、重長、信顕、正親、正勝、貞盛、成政など別名が多くある。官位は従五位下、左京亮、出羽守。
[編集] 経歴
従兄弟の宇喜多秀家に仕えたが、折り合いが悪かった。そのため慶長5年(1600年)1月に宇喜多氏においてお家騒動が発生すると、秀家と対立することとなる。同年、会津上杉征伐に秀家の名代として出陣、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、その功績により石見国津和野に3万石(のち大坂の陣の功により加増され4万石)を与えられた。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降「坂崎直盛」と名乗るようになった。
[編集] 千姫事件
元和元年(1615年)大坂夏の陣による大坂城落城の際に、直盛は徳川家康の依頼を受け、家康の孫娘で豊臣秀頼の正妻である千姫を大坂城から救出した。直盛は火傷を負いながら千姫を救出したにも関わらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたことで、千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている。しかし現在では彼が千姫を大坂城に侵入して千姫を直接救い出したこと自体も疑われている(実際には千姫は堀内氏久という豊臣方の武将に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けた、とする説が有力)。
この事件は秀頼死後、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然姫路新田藩主本多忠刻との縁組が決まったことにより、坂崎の面目が丸潰れとなった。これに対して武士としての面目を守り、筋を通すべく、直盛は千姫奪回計画を立てるも、幕府に露見し、一族に寄ってたかって詰め腹を斬らされたとも、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われている。
この騒動の結果、津和野藩坂崎氏は断絶することとなる。(中村家などが子孫として生き残っている)
墓所は島根県津和野町の永明寺。関ヶ原の戦いに敗れ改易された出羽国横手城主小野寺義道は、津和野で坂崎直盛の庇護を受けていた。直盛の死後13回忌に小野寺義道はその恩義に報いる為、この地に坂崎直盛の墓を建てたと言われている。
坂崎直盛は、一方的な横恋慕から藩の断絶に遭ったとして、凡将と評価されることがある。しかし、直盛の側に立って事績を見直すと、意地を貫いているとも言える。後世になって千姫事件を面白おかしく脚色されたために、愚か者・痴れ者のレッテルを貼られてしまった不幸な武将というべきかもしれない。