名越時章
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名越 時章(なごえ ときあき、1215年(建保3年) - 1272年3月11日(文永9年2月11日))は、鎌倉時代の幕府評定衆である。北条得宗家の庶子家である名越流北条氏の2代当主。北条朝時の子、母は大友能直の娘。妻は二階堂行有の娘。子に北条公時、北条篤時ほか。北条時章。
1245年(寛元3)には兄の北条光時が5代執権北条時頼の廃立を企てて失敗した事により失脚しており、時章は赦免されて1247年(宝治元)より評定衆となる。反得宗の筆頭格であり、後に弟・教時(のりとき)と共に得宗家転覆を図る。
8代執権北条時宗の頃、1272年(文永9)に教時が謀反を起こし、時章のもとにも追討の兵が迫り、その兵によって殺害される(二月騒動)。その後、時章は無実であったことが判明し、時章を殺害した5人は斬首に処せられ、時章の子孫は幕府の要職に取り立てられている。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1239年(暦仁元)閏2月15日、大炊助に任官。 2月27日、式部少丞に遷任。 9月1日、従五位下に叙し、式部大丞に転任。
- 1245年(寛元3)4月8日、尾張守に転任。
- 1247年(宝治元)、幕府の評定衆と就る。
- 1251年(建長3)、引付頭人兼帯。
- 1266年(文永3)、引付頭人退任。