合肥
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安徽省内での合肥の位置 |
合肥(ごうひ・がっぴ、Hefei )は中華人民共和国安徽省の省都である。総面積7,266平方キロ、総人口4,446,800人。(2004年)市区部の面積458平方キロ、人口120万人。
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[編集] 地理
安徽省中央、長江と淮河の間に位置し、巣湖に臨む。南に淝河を通じて長江から海に出ることができる。
[編集] 歴史
合肥の歴史は古く、紀元前3世紀に秦が合肥県を置き、九江郡に属した。
三国時代には魏の揚州経略の主要拠点となり、しばしば呉の攻撃を受けている。魏の武将、張遼が楽進、李典らとともに、数千程度の兵力で合肥に篭り、呉の10万の大軍を相手に死守し、やがて撤退しようとした呉軍に、精鋭騎兵800で追撃をかけ、壊滅に追いやった。その後も張遼は呉軍を一切寄せ付けず、江南、江東に対する前線基地として定着するようになる。満寵が230年代初頭に老朽化した合肥城の北側に「合肥新城(がっぴしんじょう)」を築城する。234年呉の孫権が同城を攻撃する。これに対して魏の明帝・曹叡が親征を行ってこれを撃退した(現在も同地に合肥新城遺址が残されている)。
その後隋代には合肥県に廬州府が設置され、明清時代まで続いた。このため廬州の別称でも知られる。
1949年1月21日、国共内戦のさなか中国国民党軍を破った人民解放軍が合肥に入城、2月1日に県を廃して合肥市を建てた。1952年8月25日安徽省人民政府が正式に成立し、合肥市に駐在するようになった。
[編集] 行政区画
- 県 長豊県、肥東県、肥西県
- 市区 瑶海区、廬陽区、蜀山区、包河区
[編集] 友好都市
[編集] 有名人
- 包拯 北宋仁宗期の著名な大臣、清廉を以て名を残した。京劇などで「鉄面無私の包公」として登場する。
- 李鴻章 清末に軍事力を背景に大きな力を持ち、洋務運動を推進して崩れゆく清朝を支えようとした政治家
- 段祺瑞 清末民初の北洋軍閥の軍人・政治家
- 楊振寧 世界的に著名な米国籍華人物理学者
[編集] 交通
[編集] 外部リンク
- 合肥市人民政府公式サイト(中国語及び英語)
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