司馬相如
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司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。
賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓氏との恋愛も有名である。
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[編集] 略伝
[編集] 出仕
司馬相如は、蜀郡の成都の裕福な家に生まれた。若い頃は、書物を読むことを好み、剣術を習っていた。もともと名は犬子であったが、成長後、戦国時代の趙の将軍である藺相如に憧れて、名を相如に改めた。
前漢の法によれば、大金持ちの家の子は自動的に郎という官職が与えられることになっていた。司馬相如もこの法によって、郎となって景帝に仕えた。後、武騎常侍となった。しかし、景帝が文学を好まなかったこともあり、司馬相如はこの仕事に愛着を持っていなかった。
ある時、景帝の弟の梁の孝王が景帝のもとを訪ねてきた。梁の孝王のもとには、枚乗などの当時の一流の文人・学者がいた。司馬相如はこの時に孝王に仕えようと思いたった。そして、病を理由として官を辞して、景帝のもとを去り、梁へと向かった。司馬相如は梁で孝王の歓迎を受け、孝王の援助を受けて、先に述べたような文人などと共に住むことが許された。なお、梁にいた期間に司馬相如の代表作である子虚賦が書かれた。
[編集] 卓文君との出会い
紀元前144年に孝王が死んだため、司馬相如は故郷の成都に帰った。しかし、実家はすでに貧しくなっており、普通に生活するだけでも困難であった。こういった状況に対して、司馬相如の友人で臨卭県の県令を務めていた王吉は、臨卭県に来るように言った。友の勧めに従って、司馬相如は臨卭県に赴いた。
そして、王吉は臨卭県きっての大富豪である卓王孫の家での宴会に司馬相如を連れて行った。宴もたけなわとなったころ、王吉は司馬相如に琴を披露するように頼んだ。司馬相如は見事に琴を弾き、宴会に参加していた人たちを魅了した。ところで、卓王孫には夫に先立たれたために実家に戻ってきた卓文君という娘がいた。卓文君は司馬相如の奏でる琴の音に魅了され、司馬相如のことに惚れてしまった。すると、卓文君のもとに司馬相如からのラブレターが届いた。
卓文君はこのラブレターに感激し、家をこっそり抜け出して、司馬相如と駆け落ちしてしまう。卓王孫はこのことに激怒し、娘には一切財産を分けないと言った。そこで、卓文君は自分の所有物を売り払い、臨卭の街に酒場を開いた。そこで、卓文君は自らホステスとして働き、司馬相如は上半身裸で召使いのようにして働いた。卓王孫は自分の娘がこのような仕事をしていることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、卓文君に召使いを100人、100万銭、前回の結婚の際の嫁入り道具を与えた。これで、司馬相如は結婚を認められたことになる。2人は成都に移り住み、土地を買い入れて、地主となった。
[編集] 武帝の宮廷へ
ところで、中央では景帝が死に、武帝が皇帝の位についていた。武帝は景帝と違って、文学を大変好んでいた。あるとき、武帝は『子虚賦』を読んで、大いに感動し、「この賦の作者と同じ時代に生きられなかったのは残念だ」とまで言った。武帝は『子虚賦』が、ずっと昔の人によって書かれたと思っていたのだ。司馬相如と同郷である側近の者が、『子虚賦』の作者が今生きている人間で、名を司馬相如というと武帝に教えた。
武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、『子虚賦』が諸侯のことを書いた内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように『子虚賦』を改作して、『天子遊猟賦』として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。
[編集] 作品
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