古市澄胤
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古市澄胤(ふるいちちょういん、享徳元年(1452年) - 永正5年(1508年)7月)は、戦国時代の僧・武将。奈良興福寺の衆徒。父は古市胤仙。越智家秀の娘を妻とする。播磨公・播磨法師・播磨律師とも称される。
叔父宣胤のいる興福寺発心院に入って14歳で出家、倫勧房と号した。興福寺大乗院門跡の六方衆となる。1475年(文明7年)兄の胤栄を隠居させて寺を出、家督を相続した。興福寺衆徒を統率し、また越智氏と結んで筒井氏を圧倒した。1493年(明応2年)大和国守護代として南山城に入って国一揆を鎮圧し、その後は細川政元配下の武将赤沢宗益の大和国への侵攻に協力している。1508年(永正5年)細川澄元配下の武将赤沢長経に属して河内国高屋城の畠山尚順を攻めたが、敗走してその途中で自害している。
一方で連歌師猪苗代兼載から『心敬僧都庭訓』を、茶人村田珠光から『心の文』をうけ、また謡(うたい)・尺八にも優れ、文人としても有名であった。
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