博多人形
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博多人形(はかた にんぎょう)は福岡県の伝統工芸品の一つで、福岡市を中心とした「博多」の町で作られている。
発祥には諸説があり、陶師(すえし)の中ノ子家、博多祇園山笠の小堀流山笠人形の流れを汲む白水家、瓦職人の正木宗七(惣七)の3説が有力とされていたが、現在では学術的研究が進み、1600年代に博多の町で陶師を営んでいた中ノ子家より転業した中ノ子安兵衛・吉兵衛親子と、小堀流山笠人形の流れを汲む白水家との複合的要因が最も有力とされている。
中ノ子家の歴史は古く、中世に瀬戸内海の豪族である越智・河野通継(おち・こうのみちつぐ)の四男・通成(みちなり)の子で、母方の「中ノ子」姓を名乗ったことを祖とする。 「中ノ子」は本来「仲子」と書き、「なかのこ」という苗字はそれより以前の800年代より、山口県二又神社の歴代宮司である「仲子」として知ることができる。この宮司系である仲子が越智・河野家に嫁ぎ、その子が人偏の取れた「中ノ子」を名乗ったというのが、現在の通説とされている。 (中ノ子・仲子・中野子・中子・中之子といった、読みが「なかのこ」になる苗字は、一類同属であると古文書に記されている。)
1400年代~1500年代の記録は少ないが、1600年(慶長5年)からの記録が、檀家である博多・宗玖寺の過去帳に残されている。それによれば、「初代陶師」中ノ子長右衛門は下祇園町に住んでいたことが記録されており、時代背景より、陶器等を作っていたものと思われる。 博大乗寺前町に住んでいた8代陶師中ノ子長右衛門(安兵衛)が、幕府の規制により長男・9代長右衛門(長伝)に家業の陶師を継がせ、次男・長四郎(吉兵衛)には土産品向け土人形の制作を行なわせた事が、博多人形の祖である博多素焼人形の起こりである。
その後、安兵衛・吉兵衛親子が制作した土産品向け土人形は広く博多の町に広がり、諸国貿易(全国流通)も盛んに行なわれるようになり、師弟関係による同業者が増えていった。1821年頃(文政4年頃)のことである。 1890年(明治23年)に、第3回内国勧業博覧会が行なわれ、その際に出品していた博多素焼人形が好評を博し表彰されるが、この表彰状に「博多人形」とだけ記されていたため、これが公に広まり博多人形の誕生となる。よって、博多人形の歴史は1800年代であり、約200年の歴史がある。
正木家は1600年(慶長5年)に正木宗七が黒田藩御用瓦師として、博多の地に移り住んでいる。 中ノ子安兵衛・吉兵衛の住む下祇園町とは隣同士の町に住むなど、技術協力があったかのように推測できるが、正木家は瓦土を使用した瓦及び焼物を作っており、その技法は「宗七焼」と呼ばれる一子相伝の技を妙とするため、近似である博多素焼人形との技術協力があったとは考えられない。 よって現在では、正木家及び宗七焼は、博多人形に多少の影響力を持ってはいたが、交流は全く無かったと考えられている。
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