前田利友
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前田 利友(まえだ としとも)は、越中富山藩の第11代藩主。
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時代 | 江戸時代末期(幕末) | |||
生誕 | 天保5年2月1日(1834年3月10日) | |||
死没 | 嘉永6年12月20日(1854年1月18日) | |||
別名 | 啓之助(幼名) | |||
墓所 | 富山県富山市長岡の長岡御廟 | |||
藩 | 越中富山藩主 | |||
官位 | 従四位下、出雲守 | |||
氏族 | 加賀前田氏 | |||
父母 | 父:前田利保、母:毎木(橋本氏) | |||
兄弟 | 兄:利鎮、利必、利文、利繁、利清 弟:利聲、利雄、利暢、利致、利通、 利章、利龍 姉:相子、銭子、湛子 妹:梅子、道子、珠子、幸子、依子、 英子、美子、充子 |
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妻 | 正室:なし、側室:加賀氏(雛路) | |||
子 | 2男(健之丞ほか)、養子:前田利聲 |
1834年2月1日、第10代藩主・前田利保の六男として江戸で生まれる。1846年10月20日、父の隠居により家督を継ぐが、若年の上に病弱なため、藩政は父や母、そして家臣によって行なわれた。藩財政再建のため、藩士の知行借上や上米を行ない、1848年には金札を発行している。
ところが利友が病弱だったことから、生母の毎木が藩政を次第にほしいままにするようになり、毎木は自分の味方である家臣に対して勝手に加増したりするようになる。これに対して夫の利保が毎木の排除を図ったが失敗し、富山藩の家臣団は利保派(富山派)と毎木派(江戸派)に分裂して抗争するようになる。これは利友の死後、富山藩で御家騒動が起こる一因を成してしまった。
1853年12月20日に死去。享年20。実子は早世していたため、弟の前田利聲が養子として後を継いだ。