佐藤泰然
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佐藤泰然(さとうたいぜん、1804年-1872年(明治5)4月14日)は、医師。名は信圭(のぶかど)号は紅園、泰然は通称。父は佐藤藤佐(さとうとうすけ)。川崎市生まれ。
[編集] 略歴
- 1830年(天保元)蘭方医を志し足立長雋、高野長英に師事する。
- 1835年(天保6)長崎に留学。
- 1838年(天保9)江戸へ戻る。両国薬研堀に「和田塾」を開く。(和田は母の姓。)
- 1843年(天保14)佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」開設。姓も父の佐藤を名乗る。
- 「順天」とは、中国古書にある「天の道に順」の意。「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極めていた。高弟であった関寛斎の「順天堂外科実験」にその手術例が詳しい。安政年間院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術とある。いずれも麻酔薬を使わない手術。
- 1851年(嘉永4)日本初の「膀胱穿刺」手術に成功。
- 1853年(嘉永6)功績が認められて、正式に佐倉藩士に取り立てられ、町医から藩医となる。
- 1859年(安政6)病気を理由に家督を養子の佐藤尚中に譲り隠居。
- 1862年(文久2)佐倉を離れ、横浜移住。
- 1872年(明治5)東京下谷茅町(現・台東区池之端)で肺炎のため歿。享年69。