佐東銀山城
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佐東銀山城(さとうかなやまじょう)通称銀山城は安芸武田氏の当主・武田信宗によって鎌倉時代に建てられた山城である。
[編集] 概要
1517年(永正14年)毛利元就が安芸国有田にて安芸国守護・武田元繁と戦い、これに討ち取り初陣を勝利で飾った。これ以後武田氏は弱体化し、1551年(天文20年)毛利元就は「厳島の戦い」の前哨戦として銀山城を攻め、攻略した。この時に元就は、夜間に火を点けた草鞋(わらじ)千足を太田川に流し、佐東銀山城に籠る武田氏に動揺を与えたという伝承が残っている。(この伝承を裏付けるように、広島市東区戸坂町の太田川の川岸には、「千足」の地名が現在も残っている)
以後銀山城は関ヶ原の戦いまで毛利氏の支配下に置かれた。毛利元就の隠居城として使う予定があったものの、現実にそれが実行されることはなかった。後に広島城が築かれるとその重要性は低下して毛利氏が「関ヶ原の戦い」後に移封されると廃城となった。
安芸武田氏滅亡の際、残党が再起するための資金として、武田山中の洞窟に先祖伝来の純金の茶釜を埋め、目印として白南天を植えたという伝説が残っている。元々この山は金銀を産出したとされ、「銀山」の名もこれに由来するものだと言われている。
現在、この山城の登山道口には広島経済大学と広島県立祇園北高等学校がある。 なお、祗園北高校の校章には武田菱があしらわれている。
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