伊集院忠真
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伊集院 忠真(いじゅういん ただざね、天正4年(1576年) - 慶長7年8月17日(1602年10月2日))は島津氏の家臣。伊集院忠棟の嫡男。幼名は源次郎。妻は島津義弘の次女(御下(おした))。
1599年、父・忠棟が権勢を誇りすぎていたために島津忠恒によって殺害されると、その後を継ぐとともに、居城の日向国庄内の都城に立て籠もって、島津氏に対して公然と反旗を翻した(庄内の乱)。しかし翌年、徳川家康の仲介のもと、一旦は和睦が成立したが忠真は再び背いた。忠真が島津氏からの支配を離れ、他家へ奉公を希望していたが、忠恒がこれを絶対に認めなかったからであると言われる。家康が再度仲介の労を取り、忠恒が頴娃一万石を忠真に宛がうことで和睦が成立し、遂に忠真は島津氏に帰属した。忠真は島津義弘の次女を娶っており庄内の乱後は義弘の屋敷の元に預けられていたようである。
尚、忠真帰属後も義久・忠恒はこれを警戒し、関ヶ原直前、義弘は再三に渡り兵を催促したが、乱を恐れ大規模な兵の派遣は容易に行えず、そのため義弘は関ヶ原において大大名らしからぬ少数ゆえの苦戦を強いられたと言われている。
慶長7年(1602年)、忠恒の参勤に従っていたとき、日向野尻で狩りの最中に暗殺された。庄内の乱後、弟の小伝次、三郎五郎はそれぞれ別の島津家家臣の屋敷に身柄を預けられていたが、忠真の暗殺直前に母親を含めて捕縛され伊集院一族は皆ことごとく粛清された。