九条尚忠
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九条 尚忠(くじょう ひさただ、寛政10年7月25日(1798年9月5日) - 明治4年8月21日(1871年10月5日))は、江戸時代後期から明治の公家である。左大臣・二条治孝の子で、母は樋口基康の娘。娘は孝明天皇の妃・夙子。官位は従一位・関白。
権大納言・九条輔嗣に養育された。アメリカはじめ諸外国との通商に際して、1858年に幕府が日米修好通商条約の勅許調印を求めてきたとき、幕府との協調路線を推進して、条約許可を求めた。しかし同年、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な講義活動により条約勅許はならなかった。(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)
その後、復職を許されたが、その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の過激な尊皇攘夷派から糾弾されて、謹慎を命じられた。74歳で死去。