三菱重工長崎硬式野球部
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三菱重工長崎硬式野球部(みつびしじゅうこうながさきこうしきやきゅうぶ)は、長崎県長崎市に本拠地を置き、日本野球連盟に所属する社会人野球チームである。母体は三菱重工業。
1991年と1999年には都市対抗野球で準優勝、2001年には社会人野球日本選手権大会で優勝しており、九州の社会人野球チームでは強豪のひとつとして位置づけられる。わずかな突破口からビッグイニングを作る打線は「三菱ダイナマイト打線」とよばれる。
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[編集] 沿革
1917年創部の歴史を誇るが、九州社会人野球界は八幡製鐵(新日鐵八幡)と門司鉄道局(現JR九州)が長年強豪チームとして君臨しており、さらに電電九州(NTT九州)などの台頭もあった。本格的なチーム補強が実り、念願の都市対抗野球初出場を果たすのは1975年である。
1991年の都市対抗では小島啓民、林修治、牧瀬寅男らが活躍し快進撃したが、決勝で東芝に敗れ準優勝におわった(チームは小野賞、小島が久慈賞)。1999年には内薗直樹、竹下慎太郎(大分硬式野球倶楽部から補強)、貝塚政秀、伊藤大輔らの活躍で決勝まで進んだが、またしても東芝に敗れた(伊藤が久慈賞)。
2000年には入社2年目の杉内俊哉が台頭、打線も好調で圧倒的な力で都市対抗九州予選を突破。竹下、帆足和幸(九州三菱自動車)らを補強した万全の態勢で都市対抗野球に臨むが、準々決勝で優勝チームの三菱自動車川崎(現三菱ふそう川崎)にまさかの逆転負けを喫した。
2001年都市対抗も優勝した河合楽器に2回戦敗退。しかし日本選手権では九州第1代表で出場し、初戦で日本生命を破ると勢いに乗り、社会人野球の金属バット使用が最後の大会で悲願の全国制覇を達成した。MVPは後藤隆之、首位打者賞は開田博勝、打撃賞は村上竜太郎。万全ではなかった杉内も最後には好投し、大きな手土産を作ってプロ入りしていった。
一方で、野球教室の開催など、地域密着の野球チームを目指す活動も行う。2005年にチームのホームページを開設、2006年にはユニフォームのロゴも"JUKO"から"Nagasaki"へ変更された。
[編集] 主要大会の出場歴・最高成績
- 都市対抗野球 出場14回 準優勝2回(1991年、1999年)
- 日本選手権 出場8回 優勝1回(2001年)
- JABA九州大会 優勝3回(1993,94,2005年)
- JABA岡山大会 優勝1回(2005年)
- JABA高砂市長杯争奪大会 優勝1回(1992年)
[編集] おもな出身プロ野球選手
- 本西厚博内・外野手(1985年阪急ドラフト4位→阪神→日本ハム→千葉ロッテ)
- 篠原貴行投手(1997年ダイエードラフト2位)
- 内薗直樹投手(1999年読売ドラフト4位→西武)
- 貝塚政秀捕手・外野手(1999年西武ドラフト5位)
- 杉内俊哉投手(2001年ダイエードラフト3巡)
- 松永浩典投手(2005年西武希望入団枠)
- 河田寿司捕手(2005年東北楽天大学生・社会人ドラフト4巡)
[編集] おもなOB
- 小島啓民(こじま ひろたみ)
- 長崎・諫早高校→早稲田大学から1986年入部。1991年都市対抗で久慈賞。翌1992年にはバルセロナオリンピック野球日本代表に選ばれ銅メダルに貢献し、4番も打ったことがある。監督として1999年都市対抗準優勝。社会人全日本代表のコーチも務めた。
- 林修治(はやし しゅうじ)
- 長崎・佐世保工業高校から1975年入部。最初はキャッチャーだったが外野転向し、4番・センターとして20年にもわたって活躍した。1991年の準優勝にも貢献した。監督として2001年日本選手権優勝。
[編集] 関連項目
- 三菱重工長崎硬式野球部 -LOVE BASEBALL-(公式サイト・外部リンク)
- 三菱重工長崎硬式野球部応援サイト(外部リンク)
- 三菱重工名古屋硬式野球部
- 三菱重工神戸硬式野球部
- 三菱重工広島硬式野球部
- 三菱重工横浜硬式野球クラブ
- 三菱三原硬式野球クラブ
カテゴリ: アマチュア野球チーム | 三菱グループ | 長崎県のスポーツ