三戸城
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三戸城(さんのへじょう)は日本の城郭の一つ。青森県三戸郡三戸町梅内にある。通称・留ヶ崎城。
[編集] 概要
三戸城跡は、三戸市街地のほぼ中央に位置し、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された河岸段丘上にある連郭式山城である。両河川を天然の水堀とし、周囲より孤立した台地で、低地との比高差は約90mを測り、規模は東北から西南方向に約1.5km、北西から南東方向に約400mである。
近世の絵図によると、城の中心に位置する大御門から東側は本丸をはじめとする城の主要部で、大手門から本丸手前までは一門や重臣の屋敷、北東側(裏手)には直臣達の屋敷、そして城下の周りにその他の家臣達が配置されている。
現在は城山公園として整備され、昭和42年(1967年)に模擬天守が築かれ「温故館」の名で歴史資料館となっている。平成元年(1989年)には山麓に綱御門が復元された。
[編集] 沿革
伝承によると領主南部晴政の代の天文8年(1539年)に、本三戸城(聖寿寺館跡)が家臣の放火により焼失、その後この地に築いたものと伝えられる(下斗米家譜)。同時代において、三戸南部氏が勢力を拡大し続け、肥大化した組織の統制をはかる根城が必要となったため、当城へ居を移したとする見方もある。
晴政・晴継が相次いで没すると、天正10年(1582年)田子信直(南部信直)が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城、信直の代へと変わる。
天正18年(1590年)に小田原の役へ参陣した信直は豊臣秀吉朱印状により、領内支配(南部内七郡=現在の下北半島から岩手県北上市のあたり)を認められた。なお、この朱印状の条文には、領内諸城の破却(破壊)が命じられているが、これに信直家臣の妻子を三戸へ住まわせるよう命じた文言が続く。このことから、三戸城が南部氏の居城となったと考えられる。
九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより、三戸城は近世城館のシンボルといえる石垣を持った城へと普請される。その際に本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられている。
浅野氏の薦めで居城を不来方(盛岡市)へ移したことで、三戸城は古城となるが、寛永10年(1634年)に盛岡城が完成された後も、三戸城は石垣の補修や御掃除奉行が設置されるなど、藩主より管理を疎かにしないように働きかけがなされている。
[編集] 関連項目
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