ルウェリン・アプ・グリフィズ
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ルウェリン・アプ・グリフィズ(Llywelyn ap Gruffydd 、1228年頃 - 1282年12月11日)は、イングランド王エドワード1世による征服以前におけるウェールズ独立時代最後の公である。英語ではルウェリン・ザ・ラスト(Llywelyn the Last)、ウェールズ語では最後の王ルウェリン(Llywelyn Ein Llyw Olaf)というあだ名で呼ばれる。
グリフィズ・アプ・ルウェリンの子で、グウィネズの公からウェールズ全体に覇権を伸ばした大ルウェリンことルウェリン・アプ・ヨーワースの孫にあたる。軍事的才能にすぐれていたルウェリンは成人後、兄や叔父たちとグウィネズの公の位を争って勢力を拡大し、1258年にウェールズ諸侯の第一人者を意味する「ウェールズ大公」の称号を名乗った。1267年には、既にウェールズに割拠する諸侯たちの名目上の主君としての権利をもっていたイングランド王のヘンリー3世より、ルウェリンをウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)として正式に承認させることに成功する。
しかしルウェリンは、ウェールズ大公としてグウィネズ公の伝統的な支配地域である北部を支配するに飽き足らず、ウェールズを真に統一することを目指して領土の拡大をはかっていたので、南部の諸侯から激しい敵視を受けるようになった。加えてルウェリンは、イングランドでヘンリー3世に対して反乱を起こしていたレスター伯シモン・ド・モンフォールと同盟を結んでイングランド王と敵対関係にあった。1265年にシモン・ド・モンフォールが敗死した後もイングランド王との関係は回復せず、ウェールズ大公の称号を公認された後もヘンリー3世およびその後継者エドワード1世と対立関係にあった。
1275年、ルウェリンはフランスにいたシモン・ド・モンフォールの娘、エリナとの結婚を決め、エリナらモンフォールの遺族をウェールズに迎え入れようとした。エドワード1世はイングランド王に無断で行われたこの婚約を不服とし、フランスからウェールズに向かっていたエリナ一行の乗る船をイングランド沖で捕獲、解放と引き換えにルウェリンに臣従を迫った。交渉の末ルウェリンは屈服し、1278年になってエドワードの後見のもと、イングランド領内のウースターでようやくルウェリンはエリナと結婚することができた。
エリナ公妃は相続人となる子を持っていなかったルウェリンのために1282年に娘をもうけたが、その直後に病死した。妻を亡くし失意したルウェリンは同年の年初に弟のダフィズがイングランド王に対して起こしていた反乱に同調することを決意し、準備不足でほとんど勝算がない状況からイングランドに対する全面戦争に踏み切った。ルウェリンは自身の直接支配下にないウェールズ南部に赴いて味方を集めようとしたが、しかし目論みに反してルウェリンに対して敵意をもっていた諸侯はルウェリンの反乱に容易に同調せず、そうこうしているうちにルウェリンはイングランド軍の待ち伏せ攻撃を受けて戦死した。
ルウェリンの首は切断されてロンドンに運ばれてさらされ、その死によってウェールズの反イングランド抗争は指導者を失って沈静化していった。弟のダフィズはウェールズの山岳地帯に逃れ、自らウェールズ大公を名乗って抵抗を続けたが、翌1283年にエドワード1世に欺かれて捕らえられ、家族とともに処刑された。残ったルウェリンの娘グウェンリアンはリンカンシャーの女子修道院に送られ、50年近くをここで過ごした。彼女は1337年に亡くなり、ウェールズ大公家は断絶した。
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