ユリア (アウグストゥスの娘)
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ユリア(Julia Caesaris, 紀元前39年 - 紀元14年)は、初代ローマ皇帝アウグストゥスとその2番目の妻スクリボニアとの娘でアウグストゥスの唯一の実子。ユリアの名はユリウス氏族の娘や皇帝一族の娘に共通の名前であるため娘の小ユリアと区別して、大ユリアとも呼ばれる。淫婦として知られている。
のちのアウグストゥスであるガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスは、紀元前40年、スクリボニアと結婚をした。ユリアは、この結婚の翌年の紀元前39年に生れ、オクタウィアヌスにとって初めての子供であった。オクタウィアヌスはこのユリア以降実子を得ることはなかった。
ユリアが誕生した紀元前39年に父オクタウィアヌスはスクリボニアの気の強い性格に耐え切れなかったため離婚し、翌年リウィアと3度目の結婚をする。オクタウィアヌスは古きローマの堅実で素朴な風紀を理想とし、そうした美徳を持った貞淑な女性としてユリアを育てようとした。そしてユリアの身近な女性であった継母リウィアと伯母オクタウィアは当時としては珍しくこうした美徳を持ち合わせていた女性であった。
オクタウィアヌスは紀元前31年のアクティウム海戦の勝利によって内乱を終結させると、紀元前27年には「アウグストゥス」の称号を受け、帝政の基盤をほぼ磐石のものとした。こうしたなか、アウグストゥスは自身の人格に依拠している権力を円滑に継承させるため、娘ユリアを自らの後継者候補と結婚させ関係の強化を計った。紀元前25年、ユリアが14歳の時に従兄弟にあたる当時17歳の後継者候補マルケッルスと結婚させた。しかしその2年後の紀元前23年にマルケッルスは逝去し、ユリアは寡婦となる。
その2年後、ユリアはアウグストゥスの盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパと2度目の結婚をする。このときアグリッパはすでに41歳で2度の結婚をしており、前妻を離婚した上での結婚であった。この結婚は21歳の年齢差があったが幸福なものであったといわれている。この結婚でユリアはガイウス・カエサル、小ユリア、ルキウス・カエサル、大アグリッピナ、アグリッパ・ポストゥムスの5人の子供を出産した。紀元前20年に誕生した長男ガイウスはアウグストゥスから有望な後継者候補と目され、紀元前17年に誕生した弟のルキウスと共にアウグストゥスの養子とされ、ユリアから引き離された。息子達が皇帝の後継者となる一方、ユリアは結婚の後半には夫以外と密通を重ねるようになっていったといわれる。こうした密通について、なぜ子供達が父親に似ているのかと尋ねた人に対し、ユリアは「船荷が一杯出なければ客は乗せないから」と答えたという。つまり、夫の子供を妊娠した後でなければ他の男と密通はしないということだった。紀元前12年にアグリッパは没した。
再び寡婦となったユリアは紀元前11年にリウィアの連れ子であったティベリウスと結婚した。この結婚に際してティベリウスは愛する妻ウィプサニアと離婚しており、この結婚をあまり歓迎してはいなかった。またユリアはアグリッパの妻であった時からティベリウスに対し色目を使っていたため、ティベリウスはユリアを嫌っていたといわれる。それでも二人の結婚生活も当初それほど悪いものではなかった。しかし、ユリアが出産したティベリウスの息子が赤子の時にアクイレイアで死亡すると、二人の関係は急速に悪化していった。紀元前6年にティベリウスがロドス島へ隠棲するとユリアは公然と多くの愛人をつくるようになった。このティベリウスの隠棲には様々な理由が挙げられるがユリアとの不仲もその一つとされる。
ユリアはこうした愛人たちの一人であったマルクス・アントニウスの息子ユッルス・アントニウスらと元首への内乱を計ったとして姦通罪で断罪される。紀元前2年にアウグストゥスは自らの権威とティベリウスの名においてユリアにティベリウスとの離婚を命じ、さらにパンダテリア島(現在のヴェントテーネ島)へと追放した。このとき同行したのは実母スクリボニアだけであり、島への出入りは厳密に管理された。姦通の相手ユッルス・アントニウスは処刑された。
アウグストゥスは厳しい貫通罪を出していたのに自分自身の身持ちは悪く、また政治的理由で親の意思のまま結婚させられたユリアに対してローマ市民から同情の声があがった。そのためアウグストゥスはパンダテリア島へ追放された5年後、ユリアの流刑地をイタリア本土のレギウム(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)へ移した。紀元14年8月19日に父アウグストゥスが死ぬと、遺言でかつての夫ティベリウスが後継者に指名された。ティベリウスはアウグストゥスの遺言状に記されていなかったとして、それまで支給されていた年金を停止するなどユリアを窮乏に追い込み、同じ年のうちにユリアは死んだ。