ミトラダテス2世
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ミトラダテス2世(Mithradates II、在位:紀元前123年 - 紀元前88年/紀元前87年)は、アルサケス朝パルティアの王。フラーテス2世の治世以来混乱していた国内政治を安定させてパルティアの国力を増大させた。大王(バシレウス・メガス)、及び諸王の王(バシレウス・バシレオン)を名乗っている。しばしばミトリダテスと記され、現地語ではミフルダートと呼ばれた。
[編集] 来歴
アルタバヌス1世の息子として生まれ、父の跡を継いでパルティア王となった。ミトラダテスは、フラーテス2世の治世以来続いていた遊牧民の圧力を外交手段によってかわすことに成功した。彼はサカ人をアラコシアとドランギアナに誘導するとともに、その地に彼らの支配する領地を与えて従属王国を作りサカ人を戦力に組み込んだ。これらの処置は後のインド・パルティア王国の成立へと繋がっていく。
一方で西方で独立を図っていたバビロニア総督ヒメロスや、それに対抗して同じく南部バビロニアで独立国家カラケネ王国を建設していたヒスパネシオスに対応した。ミトラダテス2世の圧力を受けたヒスパネシオスは抵抗を諦めて降伏し、以後カラケネ王国はパルティア領内の従属王国として存続することになる。一方でヒメロスは排除された。
国内を安定させたミトラダテス2世はアルメニア方面への勢力拡大を企図し、アルメニア王アルタバスデス1世を攻撃して降伏させた。その際アルメニアの王子ティグラネス2世を人質とし、紀元前95年にアルタバデスが死去するとティグラネス2世を帰国させてアルメニア王とし、ティグラネス2世の娘アリヤザデを妻として迎え入れてアルメニアと姻戚関係を結んだ。更に彼の治世からローマとの接触が本格化した。紀元前92年、ローマの将軍スッラとの間で、ミトラダテス2世の部下との会談が持たれている。ただしこの時どのような話がなされたのかは知られていない。
ミトラダテス2世の治世末期にはゴタルゼス1世が「諸総督の総督」を名乗ってバビロニア地方を支配下に納めるなどしているが、ミトラダテス2世とゴタルゼス1世の関係ははっきりしない。
ミトラダテス2世は「諸王の王 偉大な アルサケス 善なる 神の化身 ギリシア愛好者」など、諸王の王(バシレウス・バシレオン)を含む称号を用いたコインをいくつも残している。この称号を持ってアケメネス朝を意識したものであるとする説も強いが、諸王の王というフレーズ自体はかつてのセレウコス朝の王達も用いており、また「ギリシア愛好者」を称号としたコインも多く残されている。そのため、単純にアケメネス朝のみを意識した称号であるとはいえないとする説もある。
ミトラダテス2世の治世末期からの政治混乱で、ミトラダテス2世死後のパルティアの政治情勢ははっきりしない事が多い。ゴタルゼス1世はパルティア領のうちバビロニアやメディアに勢力を持っていたが、東部ではオロデス1世が勢力を拡張した。両者ともミトラダテス2世の生前から勢力を拡張しはじめており激しく争った。