ノート:マザー・テレサ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
記事中、本名の表記が統一されていないので、本記事を主に執筆された方は何とかしてください。Fwng3431 2006年5月5日 (金) 13:13 (UTC)
- 加筆したのはGakuinryou氏ですが、とりあえず「ボヤジュ」にしておきました。johncapistrano 2006年5月5日 (金) 13:37 (UTC)
とんちゃんさんが「初期の彼女の行動に対しバチカンは冷淡であったが彼女は自分の意志を貫いた。」「教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになり、バチカンもしぶしぶ彼女の功績を認めざるを得なくなった。」という記述がされたので、不正確であるとして削除したところ、再びIP氏によって復活させられました。
ですがバチカンが冷淡であったなら、そもそも彼女に対して「修道院外居住」という特別な許可が与えるはずがないと思います。カトリック教会において修道者が彼女のような理由で院外居住の許可を得られることはほとんどないことだからです。もしバチカンが冷淡であったというなら、公文書など客観的な論拠を示した上で書いてほしいと思います。Gakuinryou 2006年5月14日 (日) 00:14 (UTC)
Kathryn Spink 1998 Mother Teresa: A Complete Authorized Biography
Paul A., M.D. Wright2006Mother Teresa's Prescription: Finding Happiness And Peace in Service
Eileen Egan,Kathleen Egan1989Prayertimes With Mother Teresa: A New Adventure in Prayer Involving Scripture, Mother Teresa and You
...等をお読みください。マザーテレサの業績の素晴らしさは自身の信念と奉仕の実績によってバチカンの態度そのものを変えた点にあると評価されています。220.210.5.145
- 私が言いたいのは「具体的に何をもって『バチカンが冷淡だった』といっているのか」ということです。伝記名だけあげられていますが、「どの本の何ページにこのような記述がある」というところまで具体的に指摘していただかないと資料を示したことにはならないと思いますよ。繰り返しになりますが、冷淡であったならバチカンはマザー・テレサに院外居住の認可を与えなかったと思うのですがいかがでしょうか。Gakuinryou 2006年5月14日 (日) 10:33 (UTC)
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- 資料を示せとのことで、参考文献をお示ししましたが、それに対する謝意もなしに、いきなりクレームと削除ではあまりに礼を失しているとはお考えになりませんか?それがあなたの常識ならばこれ以上何も申し上げることはありませんが。
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- 「論拠を示す」というのは文献名のみをあげることではありません。その文献のどこにバチカンが冷淡であった事実が書かれているのか具体的に示してください。私が言いたいのは、具体的にどのような事実をもってバチカンが冷淡だったというのかということです。私には院外居住の特別許可が与えられている一事だけでもバチカンの特別な厚意が感じられます。記述を復活させるなら、論拠や事実を示して私の疑問にお答えの上で行ってください。「礼を失している」とのことですが、ウィキペディアはこのような多くの人の議論を経てより正確な記事の完成を目指すものです。なお、書き込みには署名をお願いします。Gakuinryou 2006年5月15日 (月) 23:13 (UTC)
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- 「「論拠を示す」というのは文献名のみをあげることではありません。」そのような規則がWikiにあるのでしょうか?外国語読解力がおありにならないようですので[1]を紹介いたします。日本語で書いてありますのでご理解いただけると思います。220.159.43.254
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そのような規則がWikipediaにあるんです。Wikipedia:出典を明記するをご覧ください。文献名だけでなくページ数を表記することも書かれています。また、上にあげている外部リンクは映画「マザーテレサ」の日本語公式サイトです。どこに「バチカンが冷淡である」と書いてあるのでしょうか。繰り返しになりますが私が言いたいのは次の二点です。
- 「バチカンが冷淡ならそもそもマザー・テレサに院外居住の特別許可が与えられなかったはず」
- 根拠なくバチカンが冷淡と断言するのはNPOVになる。具体的な反論をあげてから記述を復活してほしい。
IPの方でログインしてくださらないようですが、重ねてお願いします。Gakuinryou 2006年5月17日 (水) 10:53 (UTC)
- 自身に対する自省的態度を全く示さず相手にだけ要求していますね。文献を挙げよといいながら話し合いの機会を持たず一方的に削除をして、今度は自分の意見を一方的に押し付けるのですか。
「冷淡」との記述は主観的価値判断ですから、上記に上げた資料全体からこのように判断したまでです。
では冷淡ではなかったと記述のある権威ある公式文書とやらを上げてください。あなたの記述で不確かな部分で資料の示されてない部分を今後指摘、削除させていただきます~~~
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- ですから繰り返しになりますが、マザー・テレサが院外居住と活動の特別許可をバチカンから得たことがバチカンが冷淡どころか好意的に彼女を見ていたことの最大の証左であり、客観的事実だと思います。バチカンが冷淡であった客観的な事実や公文書の記述を見つけることができるんでしょうか。繰り返しになりますが、ログインをおすすめします。あと署名もしてください。Gakuinryou 2006年5月22日 (月) 12:56 (UTC)
バチカンは最初彼女の行動に冷淡であったが、彼女の実績と熱意に絆されて院外居住と活動の特別許可を与えるようになったという文脈が正しいのです。バチカンが自身を冷淡であったとする公式文書を出すはずないでしょう。常識で考えてください。2006年5月22日 (月) 14:39 (UTC)
- こんにちは。傍目で心配しておりました。ええと、今のところは間違いなくGakuinryouさんのおっしゃることに一方的に利があります。明確な論拠をGakuinryouさんが求めるのも正当だし、かつそれが得られないのであれば本文から抹消するのも当然のことです。ここはあくまで理屈の世界ですので、根拠を出しましょう。210.162.57.28 2006年5月23日 (火) 02:55 (UTC)
- 210.162.57.28TAHARA-LAN(田原市)さん 私が最初に記述したのでお答えいたします。上記に資料を示されています。文脈全体から含意をお汲みだししかないのでは。[一方的」という形の断定は避け他方が良いと思いますがいかがでしょうか?「冷淡であったか」という判断はかなり主観的な要素が含まれると思います。これに対しては読者が資料全体から読み取るもののように思えますがいかがでしょうか?これは事実記載というよりは価値判断の問題です。個々の価値判断に対して資料を示すように求めることは延々と削除合戦を繰り返し両者とも傷つき、生産的な議論にはならないように思います。映画「マザーテレサ」においても初期の活動については理解を得られず、修道院からの排除も覚悟して活動したことが描かれています。そうした活動に対し民衆の支持が集まりこれに対しバチカンが態度を軟化させたという文脈が成り立ちうると思います。とんちゃん2、2006年5月24日 (水) 02:24 (UTC)
とんちゃん2さま。コメントありがとうございます。ただ、いくつか気になる点がありましたのでコメントしておきます。まず「上記に資料を示されています。文脈全体から含意をお汲みだししかないのでは。」とのことですが、資料として文献名をあげる以上何ページのこの部分といわない限り意味がないと思います。たとえば私が同じように文献名だけをいくつかここにあげて「これらの資料をお読みくださればわかります」といったらみなさんが納得されるでしょうか。
また「バチカンが冷淡」というのはもしかして映画「マザー・テレサ」を見て感じられたことなのでしょうか。ウィキペディアの記述の論拠が「映画からの印象」だというならちょっとどうかなという感じです。
カトリックの修道会はすべてバチカンの管轄下にあります。バチカンは修道者が会を離れて独自の活動を行おうとするとき、簡単に許可を与えることはありません。そのような許可は慎重に慎重を重ねて調査した上で与えられます。ですからバチカンが彼女の活動の当初、積極的に評価しなかったからといっても「冷淡」であったということにはあたらないと思います。誰に対してもそうなるものです。(修道会の創立も厳しい審査を受けなければなりません。)マザー・テレサがカトリックの修道女という身分を保ちながら、新しい活動を始めることができたことの一事を見てもバチカンが冷淡であったとは言いがたいと思うのです。もしほんとにバチカンが冷淡ならマザー・テレサは修道女ではいられなかったでしょう。
ただ、本文のほうは主観的な記述を削除して、私が出来る限り穏やかにコメントしようとしてもIPユーザー名での書き込みが繰り返されるので、単に削除するのでなく、かといって「冷淡」という一方的な表現を使用することも避けてもう少し穏和な表現に変えてみます。そのあたりが落としどころではないでしょうか。Gakuinryou 2006年5月26日 (金) 14:35 (UTC)
「簡単には彼女の活動に対する認可を与えなかった」が適切な落としどころでしょう。とにかくバチカンは保守的な団体ですから、新しいことにはまず拒否反応を示すのは組織的性格といってもいいかもしれません。
Gakuinryouさんと後の記述者のやり取りには最初の段階で感情的な齟齬が生じてそれが後を引いているようにも思えます。そういったこともご考慮されれば問題を事前に回避できるような気もしますが。とんちゃん2
[編集] 批判の必要について/誰が そう 言ってるのでしょう?
しかし、カトリック教会や多くの人により「聖女」として高い評価を受ける一方で、テレサの発言や活動、修道会への寄付金の使途などについて疑問を投じる者もいる。
・・・と、ありますが、一帯誰が疑問を投じているのですか?具体的にいうと、誰ですか?--みそちる 2006年11月24日 (金) 20:50 (UTC)
- 本項の「関連作品」にも挙がっている『マザー・テレサへの旅 ボランティアってだれのため?』には、マザー・テレサの活動の、賞賛できない部分についての記述があります。usagito 2006年11月27日 (月) 12:56 (UTC)
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- 著名人ならば、批判を受けない人はいないであろうが、わざわざ記載を基本定義に持ってくるのは意図的な嫌がらせである。Wikipedia:ウィキペディアは何でないかに基づき、時間をかけて徹底的に追及したい。--Album 2006年11月30日 (木) 12:08 (UTC)
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- オリビア・ハッセーの「マザー・テレサ」でも、現地の知識階級を含む人々から強く非難される場面がありました。マザー・テレサの活動は、基本的に現地の文化と無関係で、そこで長い時間をかけて培われてきた習慣や人々の心のありようを無視した、暴力的なものでもあります。そのことは基本定義において言及されるべき要素だと思います。当然、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかにも抵触しません。著名人だから批判も受けるとかいった低次元の話ではありません。マザー・テレサの活動の本質にかかわる問題です。そういう本質的な批判を無かったことにするのは、マザー・テレサの正当な評価を怠ることであり、ある意味では冒涜だと思います。usagito 2006年12月3日 (日) 04:40 (UTC)
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(インデント戻します)ウィキペディアは議論場でもありませんので、マザーテレサとは無関係の人物を持ち出して議論を長引かせることは控えて頂きたい。人物伝について包括的なガイドラインを作りたいということであれば、ここではなくWikipedia:井戸端で提案してください。あと、意図的な情報のピックアップという理由でのコメントアウトは、ウィキペディアの方針にはないと思うので該当部分は復帰したいと思います。--kumoi 2006年12月7日 (木) 14:20 (UTC)
- その方針には「事実の暴露の場ではない」とも書かれていますね。日蓮の項目に批判が無いならば、同じくマザーテレサの項目にもあるべきではありません。--Album 2006年12月7日 (木) 14:24 (UTC)
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- 日蓮については、確かに批判はないですが、同時に現代社会に与えた功績も一切書かないことによって中立性を保っている考えています。貴殿はマザーテレサの記事も同じようにしたいと考えられているのですか? 私は今のままでは宣伝色が強すぎWikipedia:中立的な観点に立っていないことを問題だと思っているので、まあ、そういう解決方法もあるのかもしれませんね。--kumoi 2006年12月7日 (木) 14:55 (UTC)
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- あと付け加えると、出典のある記事はウィキペディアの言う「事実の暴露」ではありませんよ。--kumoi 2006年12月7日 (木) 15:02 (UTC)
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- もちろん!OKです。彼女はひどい女なので書くことはたくさんあるでしょう。楽しみにしています。ただしウィキペディアに迷惑がかからないよう、出典はしっかり明記してくださいね。--kumoi 2006年12月7日 (木) 15:26 (UTC)
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- いやいや、書かないですよ(笑)。私のプロフィールを見ていただいてお分かりのとおり、そういうことは嫌いなんです。たとえばマザーテレサが仮に「逮捕された」という事実があって、その出典があれば、歴史の欄に客観的に書くことは問題ないかと。しかし、いくら出典があったとしても、事件性のない噂話程度のことが噂として書かれているようなことは記述する必要はないですね。別に私はカトリックでも何でもないですよ。カルト信者をディプログラムする方です。別にマザーテレサが好きでもなんでもない。ただ百科事典に「なんとかして皮肉な見方を滑り込ませよう」という根性が嫌いなだけです。また明日。--Album 2006年12月7日 (木) 15:43 (UTC)
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(インデント戻します)マザーテレサの活動への批判は英語版en:Mother Teresaが充実しているので、ご覧頂きたい(誰か翻訳してくれないだろうか)。「なんとかして皮肉な見方を滑り込ませよう」などというレベルの低い問題ではないことがご理解いただけるでしょう。もちろんどの記述にもしっかりした出典がついているし、記事全体の賞賛と批判の割合も中立的な観点から見て妥当なところだと考えます。
それで現時点での日本語版ですが、貴殿がどうしても今ある場所に批判が書かれるのがいやだというのであれば、とりあえず貴殿が記述を記事内の別の場所(下のほう?)に加筆移動しても良いですよ。私は日本語版マザーテレサの記事が賞賛一方ではなく、彼女の活動に対し根拠のある批判も存在している、ということも記事のどこかに書かれていれば、今回はそれで良いと思うことにしましょう。そんなところでどうですか?--kumoi 2006年12月8日 (金) 14:58 (UTC)
- 英語版の、質の低い文体による低級な批判は、私も何度か消そうと試みて、実際に何度か消してもみたのですが、やっぱり海の向こうにも「なんとかして皮肉な見方を滑り込ませておきたい」というタイプの人がいるのです。とても困っています。仮に私が批判を行なうならば、「カルト的な側面」ですね。マザーテレサを慕って海を渡った若い看護婦の家族から、マザーテレサは批判を受けています。「娘を返して」とね。第三者による皮肉な噂話よりも、よっぽど身につまされ、また真実をはらむものです。しかし事件性のないものならば、書いても仕方がありませんね。「日蓮の流罪」は史実として客観的に記載されています。しかしマザーテレサの話は、噂話に過ぎません。「人生の一部を費やして、なんとかしてマザーテレサの項目に皮肉な見方を書き込もうとしたID」、として記憶されたいならば、お続けになると良いと思います。ずっとおつきあいしますよ。いつまでも。--Album 2006年12月8日 (金) 15:14 (UTC)
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- 【追記】英語版の定義部分の最後の方にあった「while」、から始まる低級な文体の批判文は、現在消されていますね。海の向こうには、まともな人もいる、ということです。時々、私が消したり、誰かが戻したりしてきたことが実を結んだようで、嬉しいです。--Album 2006年12月8日 (金) 15:21 (UTC)
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- おお!英語版の記事は、貴殿がいたから今のような内容に落ち着いた、ということですか。それはすごい。それでは貴殿がコメントアウトした部分にも出典があり、ウィキペデア的にそれを記載することには、何も問題はない、ということも私などがご説明申し上げるまでもなかったのですね。ただ繰り返し申し上げますようにウィキペデアは論争の場所ではありませんので、いつまでも不毛な論争を続けていきたくはありません。このまま貴殿がマザーテレサの活動への批判は一切載せない、というお考えであれば、とりあえずコメント依頼を出して他の方の意見を募りたいと思います。--kumoi 2006年12月8日 (金) 16:29 (UTC)
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どうしても「マザーテレサの批判を載せたい」という貴殿の情熱には感服しております。何年でもやりましょう。元カルト信者達の心のフォローは、最長17年続いています。望むところです。英語版も、まだまだ変えますよ。Album 2006年12月8日 (金) 17:06 (UTC)
- いえいえ、ウィキペディアのルールを勉強中の初心者が、たまたまマザーテレサでルールに違反している編集を見つけたので、ひとつ勉強がてらウィキペディアの方針に沿った解決を目指してみようと思いついただけのことです。お付き合いいただけるそうでありがたく思います。
- 昨日一応Wikipedia:コメント依頼を出してみましたが、日本語版でマザーテレサに興味を持っている人は少ないので、やはりマザーテレサについては大勢で揉めながら作られている英語版に準じた内容にしていくのが、ウィキペディア的に妥当な内容になるであろうと思います。英語版の方のマザーテレサの批判部分がなくなれば、それはウィキペディアコミュニティーの合意であるということで、日本語版にも無くて良いでしょう。ということで今後も貴殿には英語版の方でご活躍いただき、もし貴殿が英語版マザーテレサの批判部分の全削除に成功する前に、私はやりませんが、誰かが批判を含む英語版から翻訳した内容を日本語版に加筆したら、その時は諦めてください。そのような奇特な方があらわれるかどうかわかりませんが。そんな感じでどうでしょう?--kumoi 2006年12月10日 (日) 11:57 (UTC)
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- 大変前向きでよろしいと思いますが、英語版に合わせる、という基準はありません。自分で英語版に書き込んで、ほら英語版に、という編集をしても意味がないことはご理解いただけることと思います。さて、「練習の為に、わざわざ30万項目ある日本語版ウィキペディアから、『マザーテレサの日本語版の項目に、批判を書きこめるかどうか』という選択をした」と宣言されたわけですね。おかげさまで、マザーテレサについて研究が出来そうです。今日も2冊入手しました。文献を収集しながら、真剣に冷静に進めたいので、一週間おきに、日曜日ごとにノートに参ります。英語版からも模範とされるような日本語版ウィキペディアを築きましょう。どうぞよろしくお願い申し上げます。Album 2006年12月10日 (日) 15:02 (UTC)
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- まあどうか落ち着いていただきたい。私は貴殿に荒らされた記事を元に戻そうとしただけで、マザーテレサに恨みはないですよ。もし貴殿がコメントアウトした部分が「1996年にはアメリカ合衆国の名誉市民に選ばれている」というところだったとしても、私はまったく同じように、その記述がマザーテレサの記事にとっていかに大切で削除すべきでないかを出来うる限り説明し、記事の回復を求めたでしょう。皆が自分にとって不快な記述を勝手に削除していったら、このプロジェクトはどうなるか少しは考えていただきたい。貴殿を特別扱いするつもりはありません。ウィキペディアの方針に基づかないコメントアウトや削除は単なる記事の破壊であり、荒らし行為であるとみなします。貴殿にはマザーテレサの資料よりもここらへんを先に読んでもらいたいのですけれど。--kumoi 2006年12月12日 (火) 15:20 (UTC)
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(インデント戻します)まず貴方が「貴殿に荒らされた」とおっしゃっている私の行為は、マザーテレサの基本定義の部分から「しかし、カトリック教会や多くの人により「聖女」として高い評価を受ける一方で、テレサの発言や活動、修道会への寄付金の使途などについて疑問を投じる者もいる。」という記載をコメントアウトしたことを指しているということでよろしいですね?この編集は、全く同じことが英語版でも行なわれておりますが、コメントアウトされたまま定着しております。その理由として、1.基本定義部分にそぐわないこと。2.出典の明記がないこと(不正行為をほのめかすという悪意ある底意)、が挙げられます。基本定義からこの文をコメントアウトしただけで「荒らし」とウィキペディアンを決め付けるような行為は、他のウィキペディアンからの支持を得ることが困難と思われます。引き続き慎重な言動をお願い申し上げます。--Album 2006年12月17日 (日) 03:52 (UTC)
さて、マザーテレサの英語版の「批判」ですが、大きく分けて、2つ掲載されています。一つは反カソリックでトロツキストによるマザーテレサ批判。左派として札付きの人物のようですね。もう一人は、医者。マザーテレサ批判の功績だけでウィキペディアの項目になっています。批判の内容はマザーテレサの医療が現代医療の水準に比べて低い、というものです。どちらも確たる証拠は無く、印象だけのようですね。しかし書籍にはなっているので、それを出典にして記載が出ています。言うなれば、創価学会の項目に、日蓮正宗の本を根拠にして批判を載せた、といったレベルの話です。この英語版のたった2名による売名行為は、私が阻止を試みます。--Album 2006年12月17日 (日) 03:52 (UTC)
さて、「日本語による書籍」のマザーテレサ批判ですが、私が見る限り「○○という噂があって警察が踏み込んだ。ところが実際は△△だったので、警察はかえってマザーテレサのファンになった」といったものです。これを利用して「マザーテレサには○○という噂があった」と書くことは可能かもしれません。事実ですから。しかし、「実際は△△だった」という部分を消して噂だけ掲載することは、「悪意」です。--Album 2006年12月17日 (日) 03:52 (UTC)
Wikipedia:中立的な観点 に関しては、非常に大事な方針で、私のプロフィールにも掲載しており、私はこの方針を愛しております。例えば軍国主義やフェミニズムを紹介する際に、対立する観点を紹介するなどは、大切なことです。ウィキペディアが何かの思想を広める為に存在するわけではないからです。その際、Wikipedia:中立的な観点 は強力な楯になってくれます。一方、「ノーベル平和賞受賞者」を紹介する際に、「いいことばっか書いてあるから、中立的な観点から悪い噂を書かなくっちゃよぉ」という考えは間違っています。「その人物が良いことをすればするほど、中立的な観点から、悪いことを書く」とすれば、ウィキペディア全体が「人物批判事典」となってしまうでしょう。ウィキペディアには「何かを発明した」とか「善行をした」などの理由で、個人名が掲載されます。「良いことを書いたら、悪口を書くのが中立」だと考えるとしたら、それはWikipedia:中立的な観点 を履き違えているということです。以前から、このWikipedia:中立的な観点 を武器に「悪口を書きたがる馬鹿」が出て来ると予想しておりましたが、貴方は「悪口を書きたがっている」のではない、と言明されておりましたので、その点は実に安心いたしました。冷静に論を進めるために、また次の日曜日に参ります。クリスマス・イブですね。--Album 2006年12月17日 (日) 03:52 (UTC)