ホンタイジ
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アイシンギョロ・ホンタイジ (愛新覚羅皇太極 明の万暦二十年十月二十五日(1592年11月28日) - 明の崇禎十六年/後金の崇徳八年八月九日(1643年9月21日) 在位1626年 - 1643年)は清の第二代皇帝。本名はヘカン。廟号は太宗(たいそう)。皇太極は皇太子、黄台吉とも表記される。
ヌルハチの第八子として生まれる。皇太子と表記されるように最初からヌルハチの後継者と目されていたと考える向きもあるが、それならばヌルハチが死ぬ時にそう言い残さなかった事が不可解である。ヌルハチは自分を部族連合体の長であるとしか考えなかったので、後継者も周りの人間の推戴によって選ばれるべきであると考えていたと言う方がすっきりすると思われる。ホンタイジの即位については史書(実録)には何事もなく即位したように書かれている。しかしここの所は潤色があったと考えられる。
ともあれホンタイジがヌルハチの後を継いだ後に朝鮮が後金に叛いて親明政策を取るようになった。後金は明と断交しているために当然朝貢が出来なくなっていた。朝貢の利益は後金にとって非常に重要な産業だったのでこれを絶たれる事は死活問題になったのだが、朝鮮を抜け道として間接的に売買することが出来た。しかし朝鮮が叛いた事によりこの道も絶たれ、後金国内には出荷する事の出来ない朝鮮人参や貂の毛皮などが山積みになってしまった。
また西のモンゴルのチャハール部も明と同盟を結び、後金に敵対するようになった。
これに対しホンタイジは1627年(天聡元年)に朝鮮に従兄アミンを遠征させ、朝鮮を屈服させた。更に1631年(天聡五年)にはチャハール部のリンダン・ハーンに勝利し、1635年(天聡九年)にはチャハール部を組み入れ、元の玉璽をリンダン・ハーンの息子エジェーイから受け取った。
1636年、玉璽を受けた事を期に満州族、漢族、モンゴル族の三族から推戴を受けて、「国王」から正式に「皇帝」となり、国号を「大清」とした。あわせて改元を行い「崇徳」とした。皇帝の名にふさわしい権力を持つために即位前後からホンタイジは兄や従兄である重臣たちを失脚させる。また明に倣って六部を創設し、漢族官僚を登用する事でそれまでの部族連合体から中華的な中央集権帝国へと移行した。
1637年、ホンタイジが皇帝になった事を認めない事を表明した朝鮮を親征して再び討ち(丙子胡乱)、朝鮮と明の冊封関係を絶つのに成功し、朝鮮を清の冊封国とした。
東北部を完全に掌握したホンタイジは明の領内への侵攻を目指すが、山海関の守りは硬く、果たせぬままに1643年に急死した。その死因について、脳出血等の疾患によるものだったのではないかとする研究が存在する。遼寧省瀋陽市の北にある、昭陵に葬られた。