ホルティ・ミクローシュ
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ヴィテーズ・ナジバーニャイ・ホルティ・ミクローシュ(Vitéz Nagybányai Horthy Miklós, 1868年6月18日 - 1957年2月9日)は、20世紀のオーストリア・ハンガリーの軍人、戦間期ハンガリーの摂政(1920年3月1日 - 1944年10月15日)。フランス語風のミクロシュ・ホルティ・ド・ナジバーニャ(Miklós Horthy de Nagybánya)という名でも知られている。
ハンガリーの地主家庭の出身でオーストリア・ハンガリー海軍に入隊し、1917年にイタリア海軍を破って名声を獲得した。翌1918年、少将ながらも海軍艦隊司令官に就任し、停戦により艦隊が戦勝国に接収されるまでこれを務めた。
1919年、首都ブダペシュトにクーン・ベーラによる共産主義政権が起こると、ホルティは共産主義に反対する人々の期待を受けて旧オーストリア・ハンガリー海軍のハンガリー兵を率いてハンガリーに帰国し、クーン政権を倒して自ら政権を掌握した。翌1920年、国王不在のままホルティはハンガリー王国摂政に就任。オーストリアを追われたハプスブルク家の元オーストリア・ハンガリー皇帝カール1世がハンガリー国王に復位するのに反対(自己の権力が制約されるのを嫌ったからとも、ヴィッテルスバッハ家から次期国王を迎える計画があったからだとも言われている)して、国王不在のまま摂政として独裁体制を確立した。
第二次世界大戦直前にはハンガリーはナチス・ドイツと接近し、ウィーン裁定によってチェコスロバキアとルーマニア領トランシルヴァニアからハンガリー人が多数を占める地域を割譲させるなどした。
独ソ戦が始まると、ハンガリーも枢軸国の一員としてソビエト連邦に宣戦布告したが、枢軸国が劣勢となった戦争末期の1944年にホルティはドイツとの断交と連合国への寝返りを企てた。しかし、それを阻止したいドイツはホルティを逮捕し、幽閉した。その後、ハンガリーでは親ドイツの矢十字党がクーデターによって権力を握り、ソ連軍によって占領されるまで枢軸国に留まった。
戦後、拘留を解かれたホルティを戦争に関する罪に問うことをユーゴスラビアが要求したが、連合国によって却下され、ホルティは身の安全を得た。ソ連軍の占領下でハンガリーには容共的な政権が樹立されたため、彼は帰国することができず、ポルトガルで余生を送って1957年に亡くなった。
ホルティの遺骸はソ連が崩壊しハンガリーが民主化を達成した後の1993年にようやくハンガリーに戻され、故郷のケンデレスに埋葬された。