ペトロの手紙二
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ペトロの手紙二は新約聖書中の一書で公同書簡と呼ばれるものの一つ。新約聖書におさめられた諸書の中では本書がもっとも遅く成立したという見解で聖書学者たちは一致している。冒頭で著者は自らのことを「シメオン・ペトロ」と名乗っているが、新約聖書の中で使徒ペトロがシメオン(アラマイ語表現のシモン)・ペトロと名乗る平行箇所が他にない。このことは本書簡が(『ペトロの手紙一』のように)秘書によるものでなく、ペトロ本人によって書かれた証左であると考える人もいる。それ以後書かれたペトロを名乗った文書のほとんどは「シモン・ペトロ」という名前表記していることから考えるとあえて「シメオン」という形が用いられているのはなぜかということになる。本書は『ペトロの第二の手紙』、『第二ペトロ書』とも呼ばれる。
本書は死を目前にしたペトロによって書かれたという(1:14)、この部分がオリジナルなものか、あるいは後から付け加えられたものかについては議論がある。どちらにせよ、この部分は、著者が自分の死期を予期するなど超自然的な能力を持っていることを示す箇所と見られていた。
この書簡では7箇所、旧約聖書への言及が見られる。3:15節および16節はパウロ書簡おそらく『テサロニケの信徒への手紙一』からの引用と見られる。
さらに『ユダの手紙』との共通箇所が多く見られる。たとえば1:5はユダ3、1:12はユダ5、3:2fはユダ17f、3:14はユダ24、3:18はユダ25などである。聖書学者たちのあるものは、『ペトロの手紙ニ』は『ユダの手紙』をもとに140年ごろ書かれたと考えるが、逆ではないかと考えるものもいる。『ペトロの手紙二』の成立を140年ごろと考える人々の論拠は、70年のエルサレムの神殿の崩壊について言及されていないこと、二世紀半ばに問題になったグノーシス主義者たち(偽教師と呼ばれている)への言及を含んでいることなどである。
『ペトロの手紙二』は新約聖書正典にもっとも遅い時期に受け入れられた書物である。正式に正典と認められたのは372年のラオディキア教会会議においてであり、アレクサンドリアのアタナシオスとアウグスティヌスの強い推薦に後押しされた。それ以前の教父たち、エイレナイオスもスミルナのポリュカルポスも著作の中に第二ペトロを引用していないが、オリゲネスやポリュビオスは「論議のある」書物として取り上げている。ヒエロニムスは著作『デ・ヴィリス・イリュストリブス』一章で「ペトロは正典におさめられた二つの書簡を書いたとされているが、第二のものは用語やスタイルの違いからペトロによるものでないという意見が多い」と書いている。
本書簡はほとんどの学者たちが使徒ペトロによるものでないと考えており、初代教会の時代からすでにペトロのものではないという見方が一般的になっていた。『ペトロの手紙一』と比べて文体がまったく異なっていることは読んですぐにわかることである。バークレー聖書辞典では本書の文体を「派手で華々しい」ものであるという。両方ともペトロが書いたと考える人々は、この文体の違いを説明するため、第一の手紙はバルナバに命じて書かせたものであり、第二は自ら筆をとったものであるとする。その証拠として冒頭の「シメオン・ペトロ」という言葉をあげている。
本書の成立が二世紀以前にさかのぼるものでないという内的証拠の一つは3章15節および16節でパウロの手紙がすでに広く読まれているという箇所である。この箇所から本書が成立した時期にはすでにパウロの手紙がまとまった形で各地の教会で読まれていたということがわかる。ペトロ本人が書いたという説を支持するものは、ペトロが殉教する67年ごろまでにはすでにパウロの手紙が読まれていたと主張している
多くの学者たちはペトロが同時代のパウロの書簡集を手にいれられたはずがないと考えるが、パウロの手紙が複製されていくつかの共同体で読まれていたことはパウロ書簡自体から読み取れる。さらにペトロがパウロの書簡から引用するにしても、すべての書簡を持っている必要がなかったという意見もある。さらに伝承のようにペトロとパウロが同時代にローマで活動したというなら、お互いの書簡を知る機会があったとしても不思議ではないという考え方もできよう。
この文書には新約聖書外典『ペトロの黙示録』と重複する箇所がいくつかある。この『ペトロの黙示録』が正典に受け入れがたい内容のものであったため、そのあおりを受ける形でこの『ペトロの手紙二』の正典への受け入れの議論も絶えなかったのである。