ブルーノ・シュルツ
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ブルーノ・シュルツ(Bruno Schulz, 1892年7月12日 - 1942年11月19日)は、20世紀のポーランドを代表するユダヤ系の作家・画家。ヴィトルド・ゴンブローヴィチ、スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチ(通称ヴィトカツィ)とともに第一次、第二次の両大戦間ポーランド・アヴァンギャルドの「三銃士」とも呼ばれ、その作品は欧米圏を中心として世界十数ヶ国に翻訳され20世紀文学史に確固たる地位を得ている。日本ではポーランド文学者工藤幸雄による1967年の初訳の登場以来、幾度もの改訳・増補を経て1998年には世界初となる『全集』が出版された(読売文学賞受賞)。2005年末には『肉桂色の店』『砂時計サナトリウム』の両短篇集に4篇を合わせた『シュルツ全小説』が平凡社ライブラリーより公刊されている。
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[編集] 文学作品
小説と散文詩とを無上のレトリックで融合させたシュルツの作品を陳腐な形容詞で喩えるのは難しい。 主に幼少時の身辺に取材し、ポーランドの小都会における一家庭内という極めて狭い世界を描きつつも、その小世界は過剰に膨らんだ言葉たちによって不思議な広がりを見せる。 死者と生者、人形と人間、実在と非在、作り物と本物、背徳と敬虔、正気と狂気などが境なく交錯して織り成す不条理のタペストリー。動植物や自然現象の徹底した擬人化、漆黒から豪華絢爛な極彩色にまで縦横無尽に登場する色彩、音楽的・博物誌的・錬金術的なモチーフを駆使した、直喩・隠喩入り乱れるめくるめくメタファーの横溢と連鎖。シュルツはそれら独自の手法を総じて「現実の神話化(彼の評論のタイトルより)」と呼んだ。シュルツの特異な作品群は、生前に残したのが決して分厚くはない二本の短編集だけだったにも関わらず、今なお強い影響力を保持している。
彼の言葉がいかにイメジャリーであるか、短篇『大鰐通り』を原作としたブラザース・クエイの人形アニメ『ストリート・オブ・クロコダイル』がつとに知られるところだが、シュルツ文学の映像化、舞台化、絵画化の試みは後を絶たない(漫画にもなっている)。 ポーランドの映画監督ヴォイチェフ・イェジー・ハス渾身の一大映像詩『砂時計』、イギリスの劇団テアトル・ド・コンプリシテによる『ストリート・オブ・クロコダイル(1998年来日上演)』、ドイツのマンガ家ディーター・ユットのデビュー作『ブルーノ・シュルツ短篇集、憑き物その他』、日本では新進気鋭の画家古川沙織が描いた絵物語『マネキン』が光る。前衛演劇家・現代美術家として名高いポーランドの巨匠タデウシュ・カントルは自作の多くにシュルツの影響があることを誇らしげに公言し、シュルツの『年金暮らし』を基にした『死の教室』は、ポーランドの誇る世界的な映画監督アンジェイ・ワイダによって映画化されている。
視覚のみならず聴覚の方面でもシュルツ作品にインスパイアされた音楽が生まれている。現代フリー・ジャズの分野で活躍するジョン・ゾーンは、己が出自であるユダヤの文脈に沿った「ツァディク」レーベルの運営・作曲でも知られるがその一環としてクレズマーを基調とした「シュルツ・トリビュート・アルバム」を制作した。こうした例は枚挙にいとまが無い。シュルツのようなマイナー作家としては実に異例の事態である。かくも視覚系の表現者たちを触発し続ける「沈鬱さの中に木霊す絶美の極致」の源泉は、彼のもう一つの顔である「画家」ならではの精妙な観察眼に端を発する。「(絵に比べて)散文のほうが言いたいことはより十全に言える」との限定をつけつつもシュルツ自身が「私の絵には、散文におけると同様のプロットが現れる」と明言している(ヴィトカツィ宛ての公開往復書簡より)。
文学方面でもシュルツの影響を受けた作家は多く、特にユダヤ系の作家に熱く支持されている。詩人にしてシュルツ研究者のイェジ・フィツフォスキを筆頭に、ノーベル賞作家のアイザック・シンガー、現代アメリカ文壇の代表格フィリップ・ロス、『走れウサギ』などの作品で知られるジョン・アップダイクもシュルツ読者として知られる。 シュルツに直接影響を受けた現代作家としては、第二作『ノー・ホエア・マン』のエピグラフにシュルツの『天才的な時代』を掲げた亡命アメリカ作家アレクサンダル・へモンや、シュルツの行方不明の遺稿『救世主』を巡る書評家の物語『ストックホルムの救世主』(未訳)を書いたユダヤ系作家シンシア・オジック、シュルツの影響が色濃い極めて構築的な短編を書く現代アメリカ作家スティーヴン・ミルハウザー等がいる。
ただし、シュルツの文学作品を解釈する上で、やはりその作品の欠陥を見過ごすわけにはいかないだろう。 絶美としか言いようのない文章が現われるのと同じ頻度で、シュルツ作品には到底読むに耐えない文章が登場するのはどうしようもない事実である。シュルツ作品の欠陥として他に明確なものとして、構成力の弱さ、幼稚な思考回路、トートロジーとテクニカルタームの濫用、異常なまでの読みにくさ等があり、もし上記の視覚的な魅力がなければ、これらは時として致命的なほどである。また、短編集二作から洩れた作品のみならず、短編集に収められたものの中でも、シュルツ愛好者でさえ正直これは失敗作だろうと思わざるをえない作品がしばしば見られる。特に、魅力の多くを負っている父が登場しない作品においてこの傾向は顕著で、第二短編集『砂時計サナトリウム』では、訳者自身が中篇『春』と表題作『砂時計サナトリウム』以外の作品の出来に対して疑義を呈しており、『孤独』に関しては失敗作とさえ言っている。
これら多くの欠陥のせいで、視覚芸術のアーティストたちに圧倒的な支持を得ているとはいえ、やはりシュルツは普遍的な魅力を湛えているとはいえず、読者によって好き嫌いがはっきり出る上、晦渋な文章が排斥されがちな現代において逆風を受けている。そのため世界文学の第一級の作家と言えるかは疑わしく、同じ中東欧の作家でも、カフカやミラン・クンデラ、カレル・チャペックといった面々に比べるとはるかに知名度で劣る。とはいえ、一度シュルツ作品に耽溺してしまった者としては、その欠陥でさえ、愛らしく、些細なものにしか見えない。文学作品における視覚性をここまで追求した作家は、おそらく世界でシュルツただ一人であり、その中毒性溢れるマニアックな魅惑でもって、これからも細々と、かつ、熱狂的な支持者を生み出していくことだろう。
[編集] 美術作品
戦火の中で多くが失われ今日に遺された彼の画業のモチーフは多岐にわたる。自画像を含む肖像画、ユダヤ教徒のコミュニティ、馬車、路上の情景、卓上の情景、第二短篇集『砂時計サナトリウム』に付した挿絵など。しかし質・量ともに他を圧し中心を占めるのは小説では未だ暗示の域に潜在していた特異なエロティシズムへの偏奇を表出させた作品である。アーティストとしてのデビューとなった連作版画『偶像讃美の書』に顕著なように、その濃密でグロテスクな空間では女王然と振舞う女たちの足許に跪拝する矮小化された男どもの姿が執拗に繰り返し描かれる。俗に「マゾヒズム」の一語で括られる倒錯的な図像の一群は美術史上に類を見ない強烈な個性とインパクトを放つ。ともすればシュルツ文学の「幻想的」ないしは「耽美的」側面にばかり目を奪われがちな者には必ずや大きな衝撃を与えるだろう。
欧米諸国では画集や展覧会によってシュルツの絵画は認知されており、一部に熱狂的なファンを獲得している。彼のドローイングをテーマに小説を書いた作家がいるほどである。アメリカの恐らくはヒスパニック系作家ローランド・ペレスによる衒学的アート・ポルノ『ザ・ディヴァイン・デューティー・オヴ・サーヴァンツ』がそれだ。然るに本国ポーランドに先駆けてシュルツの文業を網羅した『全集』を世に送った日本において、その絵が殆ど知られていないという悲しい現状は「文化的失態」以外の何物でもない。日本の美術界は本邦未紹介のそれら「綺想の絵画たち」に今こそ光を当てるべきである。微細の限りを凝らし迷宮の如く参入する人々全てを幻惑してやまないシュルツの「魔術的かつ自伝的な擬似神話」を読み解く秘密の鍵が確かにそこに存在するのだから。
[編集] 時代の証言者
またシュルツの絵画は「時代の証言」でもある。彼の生涯は20世紀という時代の戦火に翻弄され続けた。シュルツが生まれ世を去るまで人生の殆どを暮らした故郷ドロホビチ(現ウクライナ領)は、ポーランド東南部ガリツィア地方の小都市である。彼の生きた僅か50年の間にこの街は、オーストリア・ハンガリー帝国、ソビエト連邦そしてナチス・ドイツと目まぐるしくその被支配国を変えた。
ユダヤ人であるシュルツは終生不吉な予感に怯え、最期はゲシュタポの凶弾に斃れ数百万の同胞と運命を共にした。ホロコーストの惨禍の中で虐殺されたシュルツの芸術が「辺境から生まれた一抹の希望の光」と呼ばれる所以である。女性の美をマゾヒスティックな崇拝の構図で讃えた彼の絵には、その異様なセクシュアリティの情動とは裏腹にある種のユートピア志向が看取できる。女性性の持つ根源的な潜勢力に対する畏敬を突き詰めた地平に見えてくるものはシュルツが夢見る理想の権力像であり、それはファシズムという男性中心主義の産物を否定する精神的な「一つの革命の形」ではなかったかと思えてならない。実際『偶像讃美の書』には「街頭革命」と題された一葉がある。これまでややもすると病跡学的見地から「マゾヒズム」という表層的烙印にのみ甘んじてきたシュルツの絵画は、「空想的レジスタンス」により発せられた政治/権力機構に対する極めて示唆的かつ今日的なメッセージとして読み直されるべき可能性を十分にはらんでいるのである。シュルツ唯一の中篇『春』でも錯綜する物語の中で詩的マニフェストという形をとってひそやかな「革命宣言」が確かに謳われている。己が出自であるユダヤ的家父長制との相克そして古代母権制への回帰願望を恐らくシュルツは自身の芸術に込め続けた。ユダヤ人でありながら十戒の禁止条項を完全に無視したかの如く大胆不敵にも「偶像讃美」なる語を自作の劈頭に与えたこと一つとっても興味は尽きない。
技法的な角度からもシュルツ絵画は再評価すべきものである。連作『偶像讃美の書』はクリシェ・ヴェールという特殊な写真版画技法によって1924年頃制作された。フランス語で「ガラス陰画(ネガ)」を意味するこの技法は19世紀半ばに考案され、コロー、ミレーらバルビゾン派の画家が主に利用した。ガラスに黒色ゼラチンを塗りその皮膜をニードルで削って図柄を描き、その原版に写真の感光紙を重ねて現像する、というのが制作のプロセスである。手間がかかる割りに仕上がりがエッチングに似るその技法的な個性の欠如ゆえフランス国外へ伝播することも殆どなく、20世紀に入ると技法自体が忘れられ使う者はほぼ皆無となった。時と場所を飛び越えて言わば突然変異的にクリシェ・ヴェール技法を独学で会得したシュルツの仕事はこの意味で特筆に値する。バルビゾン派による作例はいずれもラフなもので散漫なスケッチの域にとどまっているのに対し、シュルツの筆致は時に激しく時に細やかに線描の加減を巧みに使い分け、人物の肌合い、空間の奥行きなどを見事に表現している。この『偶像讃美の書』の出来栄えを以て、ブルーノ・シュルツの名前はクリシェ・ヴェールなる「幻の」写真版画技法の「完成者」として版画史に刻まれるべきである、と言っても決して過言ではない。
いささか画業の解説に偏ったが本稿は「画家ブルーノ・シュルツ」の日本への本格的な初紹介を目指しつつ、同時にホロコーストという20世紀最大の悲劇との連関からもその特異な作品のアクチュアルな意味を問い直すものである。
[編集] 外部リンク
- ブルーノ・シュルツ - ポーランドのサイト