フラーテス4世
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フラーテス4世(Phraates IV、在位:紀元前38年 - 紀元前2年)は、アルサケス朝パルティアの王(諸王の王、バシレウス・バシレオン)。領内各地での反乱に苦しみ、またローマから送られた女奴隷ムサを妻としたが、彼女によって暗殺された。
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[編集] 来歴
[編集] アントニウスの侵攻
前王オロデス2世の息子として生まれた。オロデス2世には30人もの男子がおり、後継者として筆頭格にあったのは兄のパコルス1世であった。しかしパコルス1世はローマ領への遠征の途中、紀元前38年のギンダロスの戦いの敗戦で戦死してしまった。パルティア軍がローマ軍に大敗を喫すると、父王オロデス2世の権威は失墜した。
フラーテス4世は父王オロデス2世を暗殺し、パルティア王に即位した。フラーテス4世は即位するとすぐに兄弟の大半を殺害して政権の安定を図り、ローマ軍の侵入を撃退した。しかし反フラーテス4世派はローマに支援をもとめ、マルクス・アントニウスはこれに応じて10万人の兵力を持ってパルティアに侵入、パルティアの従属王国の1つアトロパテネの首都プラースパを包囲したが、フラーテス4世はローマ軍の補給部隊を襲撃してこれを撤退に追い込んだ。アントニウスは撤退を完了するまでに兵力の3分の1を喪失したという。
[編集] ティリダテス2世の反乱
ローマとの戦いが一段落すると、紀元前31年頃にティリダテス2世が王を名乗って反乱を起こした。フラーテス4世はこれを鎮圧に向かったが敗北してスキタイの下へと逃走した。そして翌年、スキタイの支援を取り付けて再度ティリダテス2世を攻撃し、今度はこれに勝利することができた。ティリダテス2世はローマへと逃れ、ローマの支援を受けて紀元前26年初頭にパルティアへ帰還し、バビロニアを支配下に納める事に成功したが、フラーテス4世は同年半ばには再び反撃に出てティリダテス2世を駆逐した。ティリダテス2世は尚も再起を目指して軍を集め、紀元前25年に再びバビロニアへ侵攻してセレウキアを占領したが、同年中に敗れてその権力は完全に失われた。
[編集] イタリア人女奴隷
ティリダテスの反乱の後、更にミトラダテスの反乱が発生し、フラーテス4世はその対応に追われた。こうした国内の混乱の中で、ローマの圧力をかわすべくローマで権力を握ったオクタウィアヌスとの講和が志向された。この結果、妻の1人ビステイバナプスとその間に生まれた4人の王子をローマへ人質として出し、更にイタリア出身の女奴隷ムサを妻とすることになった。ムサとの間には息子フラーテス5世(フラータケス)が生まれたが、ムサは自分の息子を王位につけて実権を握ろうとし、フラーテス4世はムサに暗殺され、フラーテス5世がパルティア王となった。