フランツ・カフカ
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フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)はチェコの小説家。ユダヤ人の家庭に生まれ、作品はドイツ語で発表した。
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[編集] 人物
常に不安と孤独を漂わせる非現実的で幻想的な作品世界は、表現主義的とも言われる独特の不条理さに満ちている。生前すでにある程度の名声を博していたが、死後の1958年に友人の編集した全集が刊行されるまで忘れられた存在であった。全集の刊行後、サルトルやカネッティなどに絶賛され、世界的なブームとなった。
1883年プラハで宝石商を営むユダヤ人の家庭に生まれる。当時オーストリア・ハンガリー帝国の都市であったプラハで公用語だったのはドイツ語であり、カフカもドイツ語を母語としている。教育を受けたのもドイツ語であり、家庭は西欧的な同化ユダヤ人だったので青年期までほとんど自らをユダヤ人と意識することはなかった。反ユダヤ暴動が起こった時もカフカの家は暴徒から「この家はドイツ人も同然だ」と見逃されている。
プラハ大学在学中に生涯の友マックス・ブロートと出会い、影響を受ける。化学のほか少年期から興味のあった美術史やドイツ文学も学ぶが、将来の職業を考えて専攻は法律学だった。1906年法学博士号を取得した後、地方裁判所の研修を経てベーメン王立労災保険局に勤務。勤務態度は非常にまじめで、労働災害の減少を目的に書かれたイラスト入りの詳細な報告書を残している。
知人が彼について述べた言葉に「ドクトル・カフカは非常に礼儀正しい紳士で、挨拶をすれば品のいい微笑とともに穏やかな会釈を返し、部屋がノックされれば、他の人のように『どうぞ』と怒鳴るのではなく静かな声で『お入り』と言った。感じのいい人で聖人のように思えるくらいだったが、いつもガラスの壁の向こうにいるように感じた」というものがある。勤務時間は早朝から午後3時ころまでであり、午後から深夜までを創作にあてた。後には錬金術師小路に小部屋を借りて創作のための仕事場にしている。
カフカの作品に大きな影響を与えているのは父との関係である。痩身長躯で芸術家肌の性格だったカフカは、恰幅よく活動的で貧しさの中から裕福な家庭を築いた父へルマンに対して強い劣等感を持っていた。自分への無理解を嘆く言葉を連ねた非常な長文の手紙が『父への手紙』として死後出版されている。強力な家父長としての父の存在は、女性との正常な関係を持つことにも悪影響を与えた。カフカは生涯に四人の女性と親密な関係になったが、そのいずれとも結婚することはなかった。最初の交際相手フェリーツェ・バウアーとは2回婚約して2回破棄しており、その苦悩は『判決』の冒頭に「Fに」とだけ書かれた献辞から感じることができる。
カフカの情熱は主に手紙によって表され、日に二回書くことも稀ではなかった。興が乗った時は筆が速く、自らの書き方を「引っ掻く」と表現していて、遅い返事を催促することもしばしばだった。その手紙はマックス・ブロートの収集によって多くが現存しており、カフカ文学の解釈にとって大きな手がかりとなっている。
カフカは肉体的劣等感のせいもあって健康には非常に気をつかい、ヒポコンデリー気味なところがあったが、身体は健康で、寒中水泳やハイキングなどを楽しんだ。しかし1917年に結核と診断され、様々な保養地を回る生活になる。療養滞在のほかは生涯のほとんど全てを生地プラハで過ごしたが、死の前年に半年だけベルリンに移っている。プラハに戻った1924年6月3日結核により死去した。
[編集] 年譜
- 1883年 7月3日オーストリア領プラハ市に、プラハに出て成功した裕福なチェコ系ユダヤ人の商人ヘルマン・カフカ(Hermann K. 1852年 南ボヘミア・ヴォセク Wossek (現チェコ・オセク Osek) - 1931年)とユーリエ・レーヴィ(Julie née Löwy 1856年 - 1934年)の長男として生まれる。
- 1889年 肉屋小路の国民学校に入学。
- 1983年 旧市街のドイツ系ギムナジウムに入学。
- 1901年 アビトゥーア取得。プラハ=ドイツ大学(プラハ大学)で法学を学び始める。
- 1902年 10月マックス・ブロートと知り合う。
- 1904年 『ある戦いの記録』
- 1906年 6月法学博士号を取得。地方裁判所で研修を受ける。
- 1907年 『田舎の婚礼準備』。プラハの保険会社で働く。
- 1908年 3月隔月刊誌『ヒュペーリオン』に『観察』が掲載される。7月30日、プラハ=ベーメン王立労災保険局に就職。
- 1909年 日記を書き始める。9月マックス・ブロートと北イタリア旅行。『ある戦いの記録』第二版。
- 1911年 マックス・ブロートとスイス、北イタリア、パリに旅行。9月末チューリヒのエーレンバッハ療養所に滞在。プラハに数ヶ月滞在したイディッシュ劇団に熱中。
- 1912年 マックス・ブロートとライプツィヒ、ワイマールを旅行。ハルツの自然療養所ユンクボルンに滞在。プラハでフェリーツェ・バウアー(Felice Bauer)に出会う。9月、文通開始。『判決』『変身』。
- 1913年 フェリーツェとの文通さかん。3月末『火夫』
- 1914年 6月1日、フェリーツェとベルリンで婚約。7月12日婚約破棄。8月初め『審判』。『流刑地にて』。
- 1915年 1月婚約破棄後初めてフェリーツェと会う。フォンターネ賞を受賞した作家カール・シュテルンハイムから賞賛の証として賞金を譲られる。
- 1916年 フェリーツェと再び親密になり7月マリエンバート(w:Marienbad/Mariánské Lázně)で休暇をともに過ごす。
- 1917年 フェリーツェと二度目の婚約。9月4日結核と診断される。12月二度目の婚約破棄。
- 1918年 妹オットラの運営する農場で療養。多くのアフォリスムを書く。
- 1919年 夏、シナゴーグ管理人の娘ユーリエ・ヴォフリゼク(Julie Wohryzek)と婚約。11月『父への手紙』。
- 1920年 4月、南チロル・メラーン(メラーノ)で病気休暇。チェコ人作家ミレナ・イェセンスカー・ポラク(Milená Jesenská-Pollak)との文通開始。7月ユーリエとの婚約破棄。12月から翌年8月までマトリアリーで湯治。
- 1922年 1月末から2月半ばまでシュピンドラーミューレ(Spindlermühle/Špindlerův Mlýn)に滞在。『城』『断食芸人』。7月1日より年金を受ける。6月末から9月までターボルの南、ボヘミアの森のプラーナ・アン・デア・ルシュニッツ(Plana an der Luschnitz/Planá nad Lužnicí)に滞在。
- 1923年 ドイツ・バルト海沿岸のミューリッツ(w:Müritz)でユダヤ人女性ドーラ・デューマント(Dora Dymant)と出会う。9月ベルリンに引っ越しドーラと共同生活。『小さな女』。
- 1924年 健康状態悪化。3月プラハに戻る。『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠の一族』。4月からウィーン近郊のサナトリウムに滞在。作品集『断食芸人』の校正。6月3日死去。6月11日プラハのユダヤ人墓地に埋葬される。
[編集] 主な邦訳
- 『変身』(角川文庫、岩波文庫、新潮文庫)
- 『審判』(角川文庫、岩波文庫、新潮文庫)
- 『城』(角川文庫、新潮文庫)
- 『アメリカ』(角川文庫)※カフカ本人は「失踪者」と命名していた。詳細は同項目参照
- 『カフカ短編集』(岩波文庫)
- 『カフカ寓話集』(岩波文庫)