パブロ・アイマール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
パブロ・アイマール(Pablo Cesar Aimar Wajad、1979年11月3日 - )は、アルゼンチン・コルドバ州リオ・クアルト出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。2006年現在はリーガ・エスパニョーラ・サラゴサ所属。
ゲームメーカーとして必要な、パス、ドリブル、シュートを兼ね揃えた選手である。その創造性豊かなプレースタイルは、かのディエゴ・マラドーナもが天才だと認め、「今唯一お金を払ってプレーを見たい選手だ」と言うほどファンタジーに満ちている。ゴール数こそ少ないが、2列目からの飛び出し、正確無比なスルーパス、巧みなボールタッチからのドリブル突破など、チャンスメイクに輝きを見せる。
1996年にアルゼンチンプロサッカーリーグの名門リーベル・プレートで弱冠16歳にしてデビュー。当時からその才能は高く評価されており、1999-2000シーズンにはMFながら12得点を上げ、前後期のリーグ優勝に貢献した。2001年1月、約25億円の移籍金でスペインのバレンシアCFに移籍。2001-2002シーズンのリーグ優勝およびUEFAチャンピオンズリーグ準優勝に貢献した。2003-2004シーズンには再びリーグ優勝、そしてUEFAカップ優勝の2冠を達成したチームの中心的存在として活躍した。しかし、2004-2005シーズンにクラウディオ・ラニエリが監督に就任してからは、本来以外のポジションでプレーさせられたり、先発メンバーを外れることが多くなったりと不遇の時を過ごした。しかし同シーズンにチームの不振からラニエリが退任し、アントニオ・ロペスが監督に就任した後は、アイマールを中心に据える戦術で、彼やチームは再び輝きを取り戻した。2005-2006シーズンは負傷やキケ・サンチェス・フローレス監督の起用法の影響からか、本来のプレーを発揮するに至らず、2006年7月に同リーグのレアル・サラゴサへ移籍した。
アルゼンチン代表としての経歴はユース時代に遡る。各世代での華々しい活躍は1995年のFIFA U-17世界選手権で3位、1997年にはU‐20南米選手権およびFIFAワールドユース選手権優勝など、広く知られるところである。フル代表では、1999年6月9日のメキシコ戦で初出場。2002年の日韓W杯にも3試合出場したが、あえなく1次リーグで敗退した。また、2006年に行われたドイツW杯は絶対的な存在であったファン・ロマン・リケルメの控えという立場から出場機会は少なく、チームもベスト8で敗退した。
甘いマスクの持ち主でもあり女性には大変な人気を誇るが、既に本人は22歳で幼馴染のアナさんと結婚して長女がいる。また、弟のアンドレス・アイマールもサッカー選手。ハビエル・サビオラはリーベル時代からの大の親友であり、リケルメとも非常に仲が良い。 余談であるが、2004年にはバレンシアCFの一員として来日、新潟県でJリーグのアルビレックス新潟と親善試合を行った際、同県を中心に被災者を出した水害や中越地震に心を痛め、義援金を出したことで有名である。この時の試合は5-2でアルビレックス新潟が勝利しているが、アイマール自身は負傷のため試合には出場しなかった。
[編集] 所属チーム
レアル・サラゴサ - 2006-2007 |
---|
1 S・サンチェス | 2 ディオゴ | 3 アランサバル | 4 クアルテロ | 5 オスカル | 6 G・ミリート | 7 モビラ | 8 アイマール | 9 S・ガルシア | 10 ダレッサンドロ | 11 ファンフラン | 13 M・マルティネス | 14 ポンシオ | 15 ラフィタ | 16 セラーデス | 17 エベルトン | 18 ピケ | 19 セサール | 20 ロンガス | 21 サパテル | 22 D・ミリート | 23 セルヒオ | 24 エレーロ | 監督 V・フェルナンデス | 編集 |
カテゴリ: アルゼンチンのサッカー選手 | リバープレートの選手 | バレンシアの選手 | サラゴサの選手 | 1979年生